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記者とライターと制約

昨夜、多くのジャーナリストたちと話をした。刺激的な出会いがあった。それぞれに得意とするジャンルがあり、言語があり、そして誰の言葉の奥にもジャーナリストとしての矜持のようなものが見えた。

僕はこれまでライターとして仕事をしてきた。これからもそれは継続しつつ、そこに記者・ジャーナリストとしての要素も加えていく。その違いはなんだろうか。


ライターと記者
ライターとは、いわば翻訳者だ。誰かの言葉をどう伝えるのがベストなのか。そのコト/ヒトをどう見せるか。そのコト/ヒトはどう見られたいのか。あるいはどう見られるのがベストなのか。そのコト/ヒトのコアは何か。価値観は何か。ありとあらゆる側面での想像力を発揮して、その事物・人物をいかに的確に伝えるかを考える。

記者・ジャーナリストも、事物・人物をいかに伝えるかを考えるという意味では同じだ。ジャーナリストならではの要素とは、事実表現に対する公平性を保ちつつ私見を加えることだと思う。世に何を問うか。何を刺すか。それを自分ベースで考える必要がある。


雑誌・新聞出身の記者は強い
昨日、話していたなかで、「雑誌や新聞出身の記者は強い」という話があった。

WEB媒体の記事には、文字数の制限がない。印刷もする必要がないし、ページ数も決まっていないことが多いので、事実上、どれだけ書いてもいい。媒体によっておよそ6,000などといった決まりはあっても、文字数も、見出しの数もデザインも比較的自由に変えられる。

しかし雑誌や新聞の記事では、文字数が明確に制限されている。各ページのデザインをベースとして、タイトルが何文字、本文が何文字、小見出しが何文字と明確に決まっている。もちろん1文字も前後してはいけないということはあまりなく、数十文字の誤差程度なら修正がきく場合が多いが、それでもその程度の誤差に収めなければならない。

つまり圧倒的な制約の違いがある。雑誌や新聞では、限られた文字数のなかでいかに内容を凝縮させて書けるかが試される。それにより文章が洗練されていくのだという。その通りだと思った。

しかもWEBではあとから修正が利くが紙では修正はできない。文字制限がないことも、公開後の修正が利くことも、ある意味ではWEBの強みでもあると思うけど、いくらでも書けてしまうため、どうしても甘えが生じるのかもしれない。もちろん、WEB記事でもいい記事を書くライターは数多くいるし、僕にも尊敬するライターがたくさんいる。

要するにここで言いたいのは、制約の多い環境下でこそ、文章が磨かれるということ。

その実践は、こういったnoteでもできる。1,000文字や2,000文字と字数を決めて書くことで、より一文一文に意味を込め、無駄をなくし、洗練された文章を書くことができると思う。

そういう意味ではWEBでも制約を設けることで、十分にそういった力をつけることができるということ。

11月に行なった24時間で一冊の本をつくる挑戦では、時間的制約の強さを味わったけど、さらに文字数を決めて量的制約も加えてみると、文章がまたより磨かれると思う。


ライター 金藤 良秀(かねふじ よしひで)


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