殺人事件の現場に行ってきた

 週末、同郷の友人と買い物に出かける予定があり朝も早くから家を出た。空はどんよりとした厚い雲が広がり、時折強い雨が降り注いでいた。幸い風はさほど強くなく寒さも幾分和らいでいており、待ち合わせの駅にたどり着く頃にはイギリス人じゃなくとも田舎の民ならば傘をささない程の柔らかい雨に変わっていた。
 
 その日は服屋を巡り美味しいものをたらふく食べよう、という会でまずは二人の行きつけの喫茶店でのモーニングから始まった。休日の朝、こういうお気に入りの喫茶店でゆっくりとコーヒーを飲む時間を作るとQOLが上がる。
 コーヒーを啜りながら、我々はとある話題で盛り上がった。友人も私と同じタイミングで件の殺人事件が起きた町で暮らしており、事件の大まかな内容は知っていた。

 あいにくの天気であったが、この事件の話題が出たことでちょっとした勢いで服屋巡りのついでに件の事件現場に少し寄ってみようという事になった。
 途中、昼食を挟んだり買い物をしながら寄り道をしつつ集まってから約5時間。久しぶりにそれなりの距離を運転した。出不精の私にとってはちょっとした旅行気分だ。
 住宅街を抜け、現場に近づくほどに道は次第に細くなっていく。しかし後続車もおり昼間という事もあってか現場周辺は割りと車の往来があった。こんな何もないようなところに誰がくるのだろう、と疑問に思うが余計なお世話か。

 後続車に追いたてられながら走り続けていると道はどんどんと細くなり、しまいには未舗装の道になった。小さな軽自動車であるにも関わらず何度も道の脇から飛び出している草木が車体をこすった。砂利道の轍も深く隆起しており車高が低い車では亀になりそうだ。もっとも、そんな車に乗っている人間はこんなところへなど来るまいが。
 少しすると田舎名物直売所が見えてきた。といっても直売所と書かれた看板がなければ倉庫にしか見えないような代物だ。車が停まっていなければ営業しているかどうかも怪しい。
 駐車場というより空き地といったスペースには4台ほどの車が停まっており後続の車もその直売所が目当てのようで曲がっていった。車の往来があるのも納得だ。

 そこまでの道のりは、畑と打ち捨てられた空き地に挟まれた古びた民家がちらほら見て取れ、人の生活を辛うじて感じられていたが直売所を越えるといよいよ草木しか見えなくなってきた。しかし遠目に鉄塔が見える。グーブルマップで見た事件現場の目印だ。間違いなく現場に近づいている。

 道の脇に立つ電柱はなんだか少し傾いているように見えた。その電柱の上ではカラスが空虚を見つめていた。

 電柱がつなぐ電線はおそらく件の民家につながるものだろう。なんだか世界とその民家をつなぐ命綱の様に見える。
 走っているとバックミラーに後続の車両が再び見えた。白い軽自動車だ。なんだか嫌な感じがする。目的地がもし同じならばどうしたものかという不安が精神に薄いシミを落とし落ち着かない気になる。

 現場周辺はストリートビューや報道ヘリの映像、ニュースで見た風景とはまた別の場所に思えるほどに暗い空気に覆われていた。実際に来てみると違うだろう、とは思っていたがそういうレベルではなかった。
 道の脇にはポリタンクやら壊れたデスクチェアなんかがセイタカアワダチソウの中に転がっているのが見える。家の周辺に転がっているそれらは誰かが不法投棄にやってきたのか、件の民家からこぼれ落ちてきたのか。どちらにせよまともではない。
 そのまま道なりにゆっくりと進んでいると遠目に事件現場の民家が見えた。木々に規制テープが巡らされ物々しい空気が漂っている。どうやら知らずのうちに件の民家へ続く一本道に入ってしまっていた様だ。事前に見ていたマップでは家に辿り着く前に道の分岐があったはずである。注意深く見ていたはずだったが見落としていたのか、あるいは道に見えなかったのか。

 曇天も相まって、そこはまるでゲーム「サイレン」の世界の様に見えた。どこからか屍人の笑い声が聞こえてきそうだ。私はマニュアル免許を持っているのでもしサイレンの世界に迷い込んでいたとしても最初の軽トラックの難関と某元プロゲーマーの言うところの人権はなんとかなりそうだ。しかしその後を生き残れる気はしない。

 地面は朝から降り注いだ雨を吸い込んだせいというよりも慢性的に湿っている雑木林を彷彿とさせた。そういう宿命を背負った土地なのか。遺体遺棄現場は私有地内の沼地であった。池ではなく沼地だ。どう考えても家を立てるべき場所ではない。そういったところも含めて様々な思いが巡る。
 
 いよいよ私有地に入りそうなのでUターンをしたかったが後続車がきているとなるとそうは行かない。そもそもあの車はなんなのだろう。警察車両というわけでも無さそうだ。遺族だろうか。もしそうだとしたら申し訳ない。
 
 なんとかUターン出来そうな場所を見つけて転回したときには後続車もバックして戻っていった。それから文明のある道へと下っていく最中、その白の軽自動車とすれ違った。道幅のないところですれ違ったこともあり運転席がよく見えた。妙にこちらを覗き込んでいたのは気のせいか、あるいは私が彼の事を見すぎていたせいなのだろうか。
 
 なにか特別なものを見たわけではない。それにしっかり車から降りて現場を隅々まで見ることが出来た訳でも無い。しかしそれでも妙な興奮が車内には充満していた。言葉が続かないが「いやぁああ」友人と二人で何度も漏らした。言語化出来ないのが悔しい。
 
 事件現場周辺は思いの外車通りが多く、38歳の男が一人で歩いていると不審に見えるだろう。それも直売所を超えた先ならばなおさらだ。人通りを加味すると犯行時刻は夜だったのだろうか、しかし夜であれば家主が家に居る可能性が高い。そういった思慮の浅さというものも含めてのこの事件だろうか。
 そして窃盗目的で忍び込んだというのもいよいよ怪しく感じられてくる。いっそ家がなくて廃墟で雨風をしのごうとし、あわよくばその家にあった廃品を売って生活費にしようとしていたのでは、とも思えてくる。
 逮捕当時、彼が乗っていた被害男性名義の車のナンバープレートは付け替えられていたものだったという。そこから分かるのはやはり彼が犯罪慣れしているということだ。日常的に小犯罪を繰り返し、そういったものに近い文化圏に暮らしていたということだ。
 少なくともあまり治安が良いとは言えない今の私の生活圏においてもナンバープレートというものはそう簡単に手に入らない。
 付け替える為には盗むか所謂天ぷらナンバーと呼ばれるものを作るか購入するしか無い。しかし加工するには素人では難しいし、作り方によっては簡単にバレる。購入するにしてもスーパーマケットやホームセンターに売っているようなものではない。先日、雑貨店で「DENGER HIGHVOLTAGE DRIVER」と書かれた輸入者のナンバープレートを購入したが、それでは彼の求める効果は得られまい。恐らくその日の内に逮捕されるだろう。
 そうなると田舎によくある車検が切れて家の裏に打ち捨てられている様な車から盗む、という選択肢が一番手っ取り早い。盗む、というのは犯罪だ。そしてそもそもナンバープレートを付け替えるというものも犯罪だ。
 そしてナンバーの付替えという行動に出るというところも彼の犯罪に対してのフットワークの軽さを感じさせる要因の一つだ。Nシステム対策だったりと、やることをやっているのだ。
 しかし、逮捕されたきっかけとなった職務質問では「他県ナンバーを不審に思い」という事がそもそもの理由となっていた。それは付け替えられたもの、という事が理由の一つになっていたのだろうか。だとすると肝心なところで地雷を踏み抜く間の悪さを持っている様な気がしてならない。
 その間の悪さはまるで他人事に思えない。
 盗みに入れば家主に鉢合わせ、ナンバーを付け替えれば職務質問。そういう星の下に生まれ、人生の濁流に流されて生きてきた終着点がここか。

 また、あの家で一人で暮らしていた男性はどんな人生を歩み、あの家で暮らしていたのだろう。
 静かな暮らしといえば聞こえが良いが、そこは恐らく人の営みからなる音よりも鳥獣や草木のざわめきしかおおよそ聞こえないような場所だ。そこで一人で暮らすとなると孤独感というものは一層強くなるのではないだろうか。人と関わると辛いことや苦しいこと、ストレスが次から次へと生まれてくる。だからといって人との繋がりがなくなるとまた別の、不健全な苦しみが一層強まる。
 苦しみから逃れる方法はその根源を断つことだけではない。それを上回る幸福を見つける事が最も健全な対処法だ。
 彼がこの地に身をおいた理由がネガティブなものであったとするならば、その上でこの結末を思うといたたまれない。
 また、報道の中で近隣住民の被害男性についての「穏やかな人だった」という声があった。男性の家の周辺には不法投棄か男性の資産か、様々なものが散りばめられていた。それと併せ庭にはゴミ、おそらくマットレスも同じ様に敷地内に転がっていたものだろう。
 そんな家に住む人間に対してそんなポジティブな印象を抱くことがあるだろうか。現場は今でも親同士の繋がりなんかが大事にされる田舎である。もしかしたらその印象は被害男性が若かった頃、親の付き合いの関係で周囲に抱かせたものが未だに残っており、それが更新されていないだけなのではないだろうか。

 周囲のと繋がりはどれほどあったのだろう。
 
 事件について調べていた所、親族の男性は「たまには顔を出したら」という旨の連絡をしていたという記事を見つけた。”たまには”という言葉が全てを物語っている。
 被害男性も、逮捕された男性もどこか物悲しいオーラが漂っている。カリスマ性がある人が生まれながらに輝きに満ちているように、彼らの周りには降り積もるホコリの様なものが舞っている。
 それらは暗闇で、彼らにスポットライトを当てたならばそのホコリも光を反射し輝いて美しく見えるかもしれない。しかし何もしなければただのホコリだ。どこまでも宿命的に薄汚れている。
 因みにこのホコリに光が反射して光る現象を「チンダル現象」というらしい。なんだかこういうところまで間が悪い。チンダルて。語感はすこぶる良いがどこか間抜けだ。
 

 事件現場を足早にあとにした我々は、興奮冷めやらぬままに我々はまた買い物の旅に戻った。
 その日、私は黒のタンクトップとブルーのスタジアムジャケットを買った。後日そのタンクトップを着てみたらピチピチでタイトな着こなしというよりも変質者的でスクール水着の様にも見える。どうやって活用すれば良いのだろう。しかしスタジアムジャケットはいい感じだったので良かった。

 買い物の中で紆余曲折あり、生まれた待ち時間にスタジアムジャケットを買った服屋のオーナーと雑談していると「俺の歌を聴いて100円でも払ってくれる人がいたら、それだけでプロだよね。そうやって歌うたって旅をしたい」と50代の男性からはなかなか聞けないクサイ言葉が飛び出した。これを堂々と言えて様になる人は矢沢のE先生くらいのものだ。しかし言葉の割にクサ過ぎない。きっと彼から漂う胡散臭さがその発言の臭さを上回っているのだろう。あるいは一定のレベルを越えるともうその臭気を捉えることが不可能になるのかもしれない。
 
 一日を通してゆったりとした時間の流れの中で、それでも密度の濃い休日を過ごした。夕食にはカロリーの暴力とも言える食事をし、帰宅すると死んだように眠りについた。そういう日の終わりにはいつも布団に入りながらこういう日が生きる希望になるのだと思う。
 そして眠る前の一瞬の余白でニュースにもならない、あるいはニュースになったとしても最初の報道だけされてすぐに人に忘れされていく様な事件で命を落とす人たちが多数存在しているという事実に思いを馳せた。
 人の命は尊いと皆言う。そう言葉にすればする程に世界にはその言葉が出回り、それによってその本質的な価値は低下していく。
 
 この旅で得たものは多かった。形のある物質的なものから、気づきのようなもの、そして言語化が難しもの、全てが人生を構築するピースであり日々を彩るエッセンスだ。
 
 そんなクサイことを言ってもその臭気を上回る胡散臭さを私は放出できているだろうか。
 いつかはそんな人間に私もなりたい。

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