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【日記】のようなもの

note一本書くほどじゃないけれど、このところの近況。

8月某日

遠距離介護のため飛行機で実家に来る。この遠距離介護は母がまだ存命だった頃から続いていて、もう10年以上になる。当初は3ヶ月に一度で2泊3日など、とても介護と言えない帰省だったが、このごろは自分が病気でない限り毎月10日くらいは来ている。

空港も交通機関も人が多い。お盆で人の出入りが激しいのだろう。飛行機はほぼ満席だった。
実家に着くと先に来ていた弟から「おかえり」と言われた。
なんとなく自分からは「ただいま」と言えず、「こんにちは」と玄関を入る。
わたしはここで育ったけれど、家はここではない、と思う。実家だけれど。今は90代の父が一人で住んでいる。

どうでもいいけど暑い。
自宅が北海道なので日本のどこに行っても暑い。こんな気温はふだん経験していないのだ。
頭から首にかけてじわりと汗をかき、細く薄いくせ毛の髪が顔のあちらこちらにベッタリ張り付いてうっとおしい。ひたい、目の脇、口もと、首筋。
背中も汗。腰からお尻、太ももにかけてもじっとり汗ばみ下着と服が肌にへばりつく。

ああこの夏がイヤなんだ。エアコンの効いた室内に入るけれどダメージがなかなかおさまらない。移動だけで体力を使い果たしている。
以前は介護に来たはずが、自分が体調を崩し老人から介護される羽目になったこともあった。それは避けたい。
 

別の8月某日

坊さんが来て読経する。

そもそもこの時期にきょうだいが集まるのは実家の仏壇に坊さんがお経をあげにくるからだ。盂蘭盆会。その割にナスとキュウリがない。
生前の母を思い出しても、お盆にナスとキュウリの牛馬が居たことがない。そもそも母の実家は神道であって仏教じゃなかったから知らなかったのか。いや、祖母の時代からナスとキュウリはなかった。だからいまも無いのだが、ご先祖たちはお盆に来られているのだろうか。うちだけ瞬間移動しているのかもしれない。あの世からこの世まで。そのくらいのことはできそうだ。

仏壇付近のスペースが狭いので盆提灯もまともに付けていなかった。母が生きていたら怒られるかもしれないが、(まあいいっしょ)といい加減に過ごす娘である。弟も父も気にしていない。みんないい加減な家族で良かった。こういうのは気持ちがあれば良いのだと思う。多分。

ところで結婚して初めて気づいたのだけれど、仏教と言っても唱えるお経は宗派によって違うのである。実家はオンバラソワカでナムアミダブツだ。いまの自分の家、というか夫の実家では、仏事に何度か参加したけれど坊さんはオンバラソワカとは唱えなかった。
唱えるお経は宗派によって、また行事や機会によってどう違っているのだろうか。お盆と葬式では当然お経も異なるだろうが、宗派がちがうと葬式時のお経が明らかに違っていて面白い。

今回は住職と、息子さんと思われる若い僧のお二人で声を合わせて読経された。跡継ぎがあって結構なことである。

読経と言えば、先々代の住職の読経の声が大変心地よいものだった。思わず聴き入ってしまう良いお声だった。
美声というのとはちがう。だが低くよく通り、ひとりの人の声なのにちょっとパイプオルガンの和音みたいに感じられた。あれは倍音がたくさん響くタイプの声というのだろうか。小さい和室の仏壇の前で、深く重なり合う和音のような読経が響いていた。

いまの住職も悪くないのだがそれほど倍音が響き渡るタイプではない。代々お寺さんなので親→子→孫と声も似るけれど、その声が少しずつ代を追うごとに変わっていって時の流れを感じる。

また別の8月某日

父が新聞を取っているので毎日それを読む。大きな事件から街の小さな出来事まで実にいろんなことが書いてある。

新聞は印刷された紙で物理的にそこにあるから、読もうと思っていないところまでつい目に入ってしまう。一見無駄なようだが、結果的にたくさんの知識を得ることができる。知識と知識や思いがつながって考えが深まることもある。ネットでニュースを見ていると自分の興味関心のある部分だけしか入ってこないので視野が狭まる気がするな。
だからといって自宅でいつも新聞を読んでいるわけではないんだけれど。

読み物といえば、実家ではもう50年以上、毎月、文藝春秋と中央公論を買っている。出版社から表彰してほしいほどだ。10年くらい前まではオール読物も買っていたんだけど最近はどうしたのかな。

で、文藝春秋が目の前にあったので読んだ。なんだ、めっちゃ面白いじゃないか。

芥川賞受賞作が全部載ってて、講評も載ってて(川上弘美さん、選考委員なんだ。好きなのですこの作家が)お得感が限りない。
さらにこの号には最近はまっている大河ドラマの俳優さんへのインタビューや写真などもあり、その他の記事も関心のあるテーマが多くてもう今月号(9月号)は私のための特集ですかという感じ。

自分は何で文藝春秋を買わないんだろうな。本屋で見ても買わないし、でも実家にあると必ず読んでしまう。買った方がいいのかもしれない。

さらに別の8月某日

シャンプー各社は何故「エイジング用」を展開しないのだろうと不満に思う日。

父が使っているシャンプーが今一つ髪質に合わないので、これまでは無印良品のエイジングケア・シャンプーを自分用に置いていた。ところが無印がこのシリーズをやめてしまったのだ。今はシャンプージプシーになっている。あまり高価なのも困るし、エイジングケアを謳っていてその辺で気軽に買える物が良いのだが、ドラッグストアで見ても「エイジング」を前面に押し出しているブランドは見当たらない。

今の日本って人口の半分近くが老人なんだから売れないわけないのに。どうして開発しないんだろう? 現役で開発したりマーケティングを考えたりしている人が皆老人じゃないから気づかないのだろうか。

いま日本の人口は、10人のうち4人くらいが高齢者(65歳以上)である。わたしも立派な高齢者だ。
それがこの先もっともっと増えていくのだよ。
ちなみに15歳以下は10人中ひとり~ふたりくらいであって、この先、人間はどんどん減るばかりなのである。地球全体では人口爆発して人が増えすぎてるからそういう意味では日本は優等生なんだけど。

近い将来、人が減りすぎて日本という国や文化がなくなっていくかもしれないなと時々思う。
まあそのくらい子どもが生まれなくて老人ばかりなんだから、老人用のシャンプーやコンディショナーがもっとたくさん売り出されてもいいと思うのよ。なんで無いの?


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