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社会から求められる自分像と、自分が求める自分像

こんにちは。

スイスでの就職活動を終えて、自分、なんだか一皮むけたなぁと感じたことがありました。

それは、ようやく自分に優しくをテーマに生きられるようになったということ。

今日はそのことについて綴っていきたいと思います。


頑張らないと意味なくない?


これは、若い時から自分が常に思っていたことです。
もちろん、頑張れた環境、そして頑張った先に何か報酬(学位を取るとか試験に受かるとかお金がもらえるとか)を得られることの出来た環境があったからこそ、頑張ったらいいだけじゃん。と思えてきたのはベースにあります。

自分の人生を振り返っても、ぶっちゃけ試験に落ちたとか、何か大きな失敗をしてしまったということは無く、これは自分が頑張って生きてきたからだと若い頃は思っていました。

でもスイスに来て環境がガラリと変わり、自分の頑張りは、整った環境があってこそ実ったものであったと大いに痛感したのです。

でも結局、何かに没頭して考えなくていいこの感覚も好きで、結局性格的に頑張るのが好きな一面もあるのかな、と最近は思うようになりました。

スイスに来ても、ドイツ語を勉強して、修士学を習得して、なんだかんだ勉強に没頭していたら7年経っていたし、この7年間に一応資格と学位を習得できたという事実は自分の精神安定剤にもなっているので、頑張ってくれた過去の自分には大いに感謝はしているのですが、そろそろこの頑張り続けて社会のニーズに合わせた人間になるのしんどいな、と思うことがあったのです。


外国人として生きる

かと言って、上にしてきたことはかなりしんどかったことなのかと言われるとそうでもありません。個人的に言語を学ぶのは好きだったし、何よりコミュニケーションを取るのが好きだから、きっと大学のコミュニティに属せたことも心の余裕にも繋がった。

だけど、ドイツ語C1取得も、修士修了も、結局スイス社会に良い意味では後押しされながらも、そして悪い意味では社会のレールに乗る為にしてきたことだったのかもしれないと、振り返ると思うことがあったのです。

26歳でスイスに来て、若くて気力や体力があったのはもちろん、スイスで専業主婦として生きていくのは合わないなと痛感したことから、スイスで働けるようになるのを目標にドイツ語を勉強したわけだけど、ドイツ語の能力だけでは日本と同じような社会的ポジションの就職なんかできず(ぶっちゃけ男性だったら話は別という事実もつきつけられたり)結局スイスで認められた資格や学位が必要ということで、当時興味のあった分野を勉強することにしました。


もちろん仕方なく全てのことに向き合ったのではなく、自分の興味とタイミングが合って、就職に向けて自分なりの努力をしてきたわけだけど、その行動の一つのファクターとして、スイス社会のレールが頭の中に常にあったということは事実だなと思っています。

外国人としてスイスで財政的に自立するには、スイス社会のレールに則る必要があるのだけれども、その時にはスイス社会に求められる人間を構築していく段階にも入っていたのだなと思います。


就職活動を通して得た心境の変化


スイス社会って、本当に保守的で、保育料は日本とは比較にならんくらいとってもとっても高いし、結局家庭で子供を育てましょうね。社会はその役割を担いませんのでね。とは言わんばかりの社会的風潮で、例えば幼稚園に行ってもお昼には絶対帰ってくるし、小学校、中学校も給食がないから1日学校があったとしてもお昼には一旦お家に帰ってくる。そんなシステムなんですよね。

なので女性の社会進出とかいうスローガンはもちろんあるけど、え?どうやって?社会進出しても収入と支出のバランス圧倒的アンバランスじゃね?ってなる人も多く、結局専業主婦の道を選ぶ人も田舎には多いかと思います。

だけど私の住んでいる街は比較的女性も産後3か月で社会復帰する人がいるくらいにはバリバリ働く人が多くて、修論提出、出産を終えた直後よく、

で?就職活動どう?いつから働く予定なの?

って、現地女性から聞かれることが多々ありました。
そのたびに、は?って思っていたわけなんですけど、早く復帰しないと他の女性からのそういう声ももう怖いし、あなた修士もってるのに家庭にいるとか意味わかんないみたいな視線も怖くて(勿体ないとかなんとか言うけどさ)しぶしぶ就活をしていたという一面もありました。


この焦りの中で就活をしていたので、心休まらぬ。といった感じ。
修士を習得してしまった以上はそのポジションに応募しないと就職できないのに、そのポジションに必要な経験は全くなく、かといって自分の専門分野以外に就職できるわけもなく、とにかくCVとモチベーションレターを送る日々。

そんな時に夫が心がワクワクする楽しそうな仕事を見つけてくれて、応募しよう!となったのはいいんですが、邪心が現れたのです。

それは


この仕事、ドイツ語も必要ないかもだし、ましてや修士なんて全く必要ない仕事じゃね?


見下しているとかではなく、まさか自分がその仕事のポジションに興味がでるなんて思っていなかった。しかし、興味がある。しかし興味があるのはいいがちょっと頑張ってきた自分に妥協しすぎかも。。。?という邪念です。

更にはカフェバイトよりもしかして給料低くなる…?

という不安。

そして案の定白人スイス人からは、その仕事で満足するの?と聞かれる始末。


あれ…あのワクワクした気持ち何処…?


もう困惑中の困惑の中、とにかく自問自答して辿り着いた答え。


自分がハッピーだったらなんでもオッケー(^^♪


なんともシンプル!!!!

私がこの時考えたことは、就活してても今現在めっちゃくちゃやりたい仕事結局ないわけだし、なんなら子育ての気分転換含めた暇つぶし程度に働きたいんだったら、どんな職種でもよくね?メンタルヘルスケアが海外生活で一番大事じゃね?移民として扱ってくる人達もいるけど、人間として扱ってくれる人がいる環境にいたほうがハッピーじゃね?といったことなどなどです。


・家に帰って仕事したくない。(仕事以外の時間にパソコンとかと向き合わない)
・家に帰ってもハッピーオーラをかましていたい
・息子を保育園に預けるたびに、仕事だる…って思いたくない
・息子が保育園にいる時は、自分も息子も楽しもうね!と思っていたい

母親の役割がなかったら、たどり着かなかった答えだったかもしれないけど、仕事に忙殺されたり、職場の人間関係とかで疲れ切って家庭の雰囲気どんよりさせたくないし、何より家庭ってやっぱハッピーワイフハッピーライフなわけで(ワイフでもパートナーでも何でもね)私の心が穏やかでいられたらそれでおっけい!っていうなんともシンプルな答えにたどり着くことができたのです。


資格とか、学位とか、大事は大事だけど、それらのカードを使うのは今じゃないかもしれないし、そのカードを使うこともないかもしれない。

夫に言われたことは

資格を取ったのも学位を取ったのも、自分の判断でしたことだし、自分の興味のあることに向き合ってしてきたことだから、その判断は間違っていなかったよ。
自分のやりたいことをできる人、やりたいことがある人実ははそんなにいないんだよ。
自分のやりたいことをやってきた自分を誇りに思ってほしい。


こんなことを言われ、あ~確かに、社会のレールに則るように行動してきた風にも見れるけど、自分の興味にも則ってしてきたわけだから、その選択をした後悔はゼロ ‼そして誇り100‼ってなって、無事心がハッピーでいられる職場を選択することができたのです。


格好つけたくなっちゃうこともあるし、頑張ってきたことを実らせようと躍起になることもある。


そんなときがあっても良いと思うし、それがプラスのエネルギーならもちろん燃焼させるべきだけど、今の私は心の平穏が家庭の平穏をテーマに生きているから、とにかく楽しい時間を過ごせる仲間と職場に囲まれて、海外生活を送っていこうと思えた、そんな初めての就職活動でした。



社会に求められる自分と、自分が求める自分。


社会学者のGeorge Herbert Meadが言うように、社会化された個人のMe(客観的自己)と自分の意識が創り上げるI(主観的自己)は常に表裏一体。

"I" is the answer to the "me"

と彼が言うように、このMeとIは切っても切れないものだけれども、IがMeの答えになるということは、やっぱ自分からみた自分が大事なんだよね、社会や他人が求めるものよりも、自分の心に従った選択をすることも時に大事だと痛感した9月でした。



チューッス!