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記事一覧
活動報告 9月29日「語りの夕べ」
皆様、お疲れ様です。筋ジス病棟バーチャル患者会の松田よりバーチャル患者会活動報告です。
先日、9月29日14時から「語りの夕べ」を行いました。今回は新潟病院に入院されている羽豆和幸(はず かずゆき)さんヒストリーでした。
まず、僕はずっと「はまめ」さんだと思っていましたが「はず」さんだと知りました。羽豆さんは「一度聴けば憶えてもらいやすい」と言われていました。
羽豆さんは出身が佐渡島なのです
熊本再春医療センター永井裕7年ぶりにミスチルのライブに行って来ました!
バーチャル患者会メンバーの永井裕さんがロックバンドMr.Childrenのライブに行かれました。
永井さんから喜びの手記をいただいております。
永井 裕より
2024年、令和6年、7月27日、土曜日、マリンメッセ福岡
僕が大好きなロックバンドMr.Childrenのライブに行きました。
7年ぶりでした。
3月に発表がありました。主治医から許可を貰いました。
4月にチケットを申し込みました。当選
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2024年6月30日「語りの夕べ」尾関さんヒストリー①
皆様、お疲れ様です。筋ジス病棟バーチャル患者会の深田博貴より、活動報告をさせて頂きます。
筋ジス病棟バーチャル患者会は、先月30日に、「語りの夕べ」を行いました。今回は、岐阜県の長良医療センターに入院されている、尾関泰一(たいいち)さんに、ご自身の幼少時代~高校時代について、語って頂きました。
尾関さんは、神奈川県横浜市で生まれました。生家は、大学のキャンパスの近くで、幼少時代によく近所を
2024年4月21日「語りの夕べ」村上さんヒストリー
お疲れ様です。筋ジス病棟バーチャル患者会の松田貴郎より活動報告をさせていただきます。
先日、4月21日の午後にバーチャル患者会は「語りの夕べ」を行いました。
今回は北海道医療センターの村上英樹さんのヒストリーを聞かせてもらいました。
まず驚いたのは村上さんの故郷が洞爺湖のある洞爺村(現・洞爺湖町)であること。「おお、あの洞爺湖か」と思いながら少年時代の話や有珠山が噴火した時の話などを聞いていま
松田貴郎の自分史 連載⑥「君と歩いた道」
親父と親交のあった桝屋敬吾衆議院議員に「人手不足で困ってます」と手紙を送ったのをきっかけに、桝屋さんが会いに来られたこともありました。
でも桝屋さんは今はもう引退されましたし、後継の議員さんは科学技術系なので福祉面では桝屋さんほど宛てにはできないと感じています。
長年悩まされていた車椅子でのお尻の痛みが、負荷を分散させる座位保持装置を作成して新しい車椅子にしたことで痛みから解放されました。
F
松田貴郎の自分史 連載⑤「Darkness in the heart」
親父が亡くなりました。最後はリンパ癌でした。
晩年はレビー小体型認知症を患い、さらにはステージ4の上下咽頭癌、転移した甲状腺とリンパ腺の摘出という大手術を受けて気管切開になりました。
最初はその状態でも面会に来ていましたが、痰が粘ってしまうこともあるので、デイサービスに預かってもらって母と兄が面会に来るようになりました。
食道と気管の分離手術に不備があったのか、飲んだものがじわっと気管に流れてしま
松田貴郎の自分史 連載④「A NEW STYLE WAR」
2005年6月、統廃合で大竹病院へと移転しました。病状に合わせて福祉車両、近隣地域から派遣された救急車でのピストン輸送でした。新病棟は真新しく、そこでの新しい暮らしに少しわくわくしました。
病院の名前も「広島西医療センター」に変わりました。
その頃、じいちゃんが亡くなりました。肺気腫でした。
「入院することになった」と自分で荷物をまとめ、自分で車を運転して隣町の病院に入院しました。最後の頃には低
松田貴郎の自分史 連載③「君が人生の時・・・」
卒業後は体調が悪化した時期でもありました。
当時は「心臓に負担をかけないために水分を取り過ぎないように」と言われていた時代でした。体位ドレナージによる排痰の重要性が今ほど言われてなかった時代でもありました。
そのために痰の塊が気管で詰まってしまい何度か意識を失って死にそうになりました。
年末に集団風邪的なもので発熱や体調不良が相次ぎ、僕もその一人でした。クリスマス会どころではなく「メリー苦
松田貴郎の自分史 連載②「青春のヴィジョン」
何もせずに過ごすのもどうなのかということで、入院の翌月から原養護学校に転校しました。(今思えばその時点でずっと入院することが既定路線にされていた)
原は授業を休みがちな心身症の生徒も多く、フリースクールみたいな自由な校風で僕の学年は10人くらいいました。
その反面、教員も自由になりすぎて勤務時間内に組合活動をするような日教組の巣窟でもありました。今思えば彼らの教育は左方向の政治思想を押しつけるよう
松田貴郎の自分史 連載①「生まれたところを遠く離れて」
原病院への入院は1994年11月11日でした。
親元を離れる不安や寂しさはありましたが「仕方がない」と受け入れました。僕も親も数ヶ月もすれば退院できるものと思ってましたが、その見通しは甘かったですね。
初めての集団生活は失敗も多かったです。他の患者用に出されていた高カロリー飲料をおやつと思って飲んじゃったり、朝のトイレ、入浴、ゲームの順番が早い者勝ちだったのは慣れるのが大変でした。
いじめの図式