3章 ー 戸惑い ー
美沙は家に帰って、タカに教えてもらったBBN聖書放送のウェブサイトから今日のメッセージを聞き直していた。
「……話、早いなあ……。メモ取るのたいへん……。」
時々戻って聞き直しつつ、必死に理解しようとしていた。
「美沙、何聴いてるの?」
母の美智子に後ろから声をかけられた。ヘッドホンを片耳だけ外して美沙が答える。
「今日行った教会の牧師さんのお話ー。」
「あら。どんなお話だったの?後でママにも聞かせてちょうだい。」
「……自分で聴いてー……。」
うまくまとめられなくて泣きそうになる。
夜、美沙はベッドに入って今日のことを思い返していた。
「牧師さん、愛がいちばん大事、って言ってたな……。」
教会にいた人たちは、確かにお互いを大切にし合っているようだった。同年代でない人たち同士も、若者からお年寄りまで不思議と仲が良さそうだった。力が入っていないと言えばいいのか、少なくとも無理にそうしているのではなさそうだった。
「それにしても、『神さまを愛する』ってどういうこと?」
目に見えないし、声も聞こえない。
そもそも、いるのかどうかすらはっきりしない存在を愛するなんて、わけがわからない。
「私たちは罪人、っても言ってたっけ……。」
その言葉にちくりと胸が痛む。12年も生きていれば、思い出したくない出来事の一つや二つ、すぐに思い当たる。後悔しても取り返せない出来事。傷つけてしまった友達。顔を覆って走り出したい衝動にかられる恥ずかしい失敗。思い出さないように、痛まないように、そんな思い出をいつしか心の引き出し奥深くにしまい込んで忘れていたのに、「罪人」という言葉で引き出しが少し開いてしまい、中から漏れ出し始めた臭気に戸惑っている自分がいた。
「……なんか、心がざわつくなぁ……。」
いつもは寝つきがいい方なのだが、今日は目が冴えてなかなか寝つけない。
「……でも牧師さん、そういう葛藤や失敗は『みんなある』って言ってくれてたっけ……。私だけじゃ、ないのかな……。」
苦しいのは自分だけじゃない。その言葉にどこか安堵を覚えつつ、考え疲れたのか美沙はいつの間にか深い眠りに落ちていった。
次の朝、ぼさぼさ頭のままでパジャマ姿の美沙がリビングに降りていくと、母が迎えてくれた。
「どうしたの、休みだけど今日は遅かったわね。夜更かしでもしたの?」
うー、と生返事をし、寝ぼけ眼をこすりながらテーブルに着く。クロワッサンと豆乳、フルーツ盛り合わせの朝食だった。
「お父さんは?」
「もうとっくに出かけたわよ」
「そっか……。」
美沙はパンにフルーツを挟んで、はむ、とかぶりついた。フルーツのみずみずしい甘さが身体を目覚めさせてくれる。意識が少しはっきりしてきた。
「美沙、何かあったの?」
母が父と自分の食器を片づけながら、さりげなく尋ねる。
「……えーと……あ、うん。昨日聴いた牧師さんのお話を、ぐるぐる考えてたの。」
「あらー、美沙は真面目な子ねぇ。」
目を丸くしながら心底驚いたように美智子が答える。
「それで、どんな事を考えていたの?」
「……うーん……ワスレタ……。」
バナナをもぐもぐしながら美沙ははぐらかした。
「そうなの?相談したいことがあったら、いつでもいらっしゃいよ。」
食器を洗いに美智子がキッチンへ引っ込む。
(……何をどう相談したらいいのか、それすらわかんないや……。)
「おーっす!美沙!」
10時ともなるとだいぶ日も高い。図書館で千尋と待ち合わせた。宿題をできるだけ早めにやっつけてしまうために一緒にやろう、という事だった。図書館の開館に合わせてデスクスペースを陣取る。
「何からやっつける?」
「ん……国語!」
「お、さすが文系ー。アタシは社会だな。苦手なのからやっつける!」
「と、その前に……ちょっと目の保養してくる♪」
「ん?ああ、絵画の本見に行くのな。ちゃんと帰ってこいよー。」
「うんー♪」
ー本の森ー
図書館に行くと、どうしてもそんなフレーズが浮かんでしまう。
(広すぎて、目の前の本に夢中になっているうちに、迷子になって帰れなくなって…ああ、だからヘンゼルとグレーテルはパンくずで道しるべを…)
などとぼんやり考えていて、「美術」と書かれた列を通り過ぎてしまっていた。
(おっとっと…)
小声でつぶやき、いそいそと引き返す。
(今日は誰にしようかなー…)
ゴーギャン、モネ、ルノワール。大好きな画家たちばかりだ。勉強前に絵画を眺めるのは10分、そう決めている。
手に取ったのはレンブラントの画集だった。ずしりと重い本を持って読書スペースまで行くと、美沙は目を閉じて一つ深呼吸した。
(いただきます♪)
心の中でつぶやいてから本を開いた。と、開いたページに教会で見たあの絵があった。(あっ……。)ドキッとした。偶然だろうか。暗がりの中、変わり果ててボロボロになった息子を抱きしめる父の姿があり、それを3人の人たちが取り巻いて眺めている。しばらく絵の持つ雰囲気に圧倒されて見つめていたが、(この絵……なにを描いたものだろう?)解説に目をやると、次のように書いてあった。
「……この『放蕩息子の帰郷』はレンブラントが晩年に完成させた絵である。一時は富と名声の絶頂を極めたこの画家も、やがて財産や家族を失っていく。この作品が制作されたのは1668年頃とされ、この年には息子のティトゥスが亡くなっている。妻、愛人、子供達のほとんどを失った画家はその翌年、1669年に世を去っている。
『放蕩息子の帰郷』は新約聖書でイエスが語ったたとえ話であり、それは父なる神の愛の本質を表している。自分を裏切って恥と損害を与えた息子のことを、それでもなお赦し、愛し、与えようとする犠牲を伴う父の愛を見事に描き出している。またそれはとりもなおさず、失敗や恥、一時の栄光からの没落や喪失を重ねたレンブラント自身をも生涯の終わりに暖かく迎えてくださる天の父なる神に対する彼のあこがれ、望郷の思いを鮮烈に描き出したものでもあったのであろう……。」
(……むずかしくて、よくわかんない……。)
ぱたん、と本を閉じる。だたその絵の持つおごそかさ、帰郷した息子のドロドロでみじめな姿、そして息子を包み込む父親の悲しくも優しい眼差しが美沙の心に改めて焼き付けられた。
お昼になって、図書館の中庭に木陰を見つけてお弁当をひろげる二人。
「美沙は午後はどうするの?」
「今日中に国語を終わらせるつもり。頑張って5日でプリントの課題は終わらせちゃうんだ。」
「ひえー、野心的ー。」
二人してめいっぱい集中して、ずいぶん進んだようだ。勉強熱心なのではなく、さっさと面倒なことを片づけて、心置きなく遊び倒したい、それだけのようである。
「そういえば、昨日の教会レポート、美沙はどう?」
思い出したように千尋が尋ねると、美沙の箸運びが止まった。視線を動かさずに美沙がうめく。
「……ん……何て言うか……。」「うん」
「……困って、る……。」「うん、アタシも……。」
お弁当を食べ終わった後も二人はしばらく話し続けた。ただまとめを書けばいいのか、いやいや感じたことも入れなければ、でも今一つ言葉にできない、じゃあやっぱりまとめだけ書いて感想はでっち上げで……。あれこれ話し合ってみたものの、教会のお話とあってか、何となく適当にあしらってはいけないような気もして、二人とも先へ進めないようだ。
「もう一度あの教会に行ってみようかな……。」
「え!まじで!?アタシはやだよ。面倒なの、もーやだもん。」
千尋はそっけなかった。
「……えーーー……。」
「泣きそうな顔してもだーめ。」
「……ちひろちゃーん……。」
本当に泣きそうになる美沙だった。
* * * * * *
「ねーえ、お父さん。」
「ん?なんだ美沙。」
晩酌中の父にノートを持って近寄る美沙。お願い事をする時の上目使いと、鼻から下をノートで隠すのも幼い頃からのクセだ。
「……教会のレポート、なぁ……。」
あごをなでながら美沙のノートをめくる道房。
「なんかね、どうしてもうまくまとまらないの。」
「……何ていうか、おまえ、これは……。」
娘のメモ書きを見ながらビールを流し込み、椅子の背もたれに寄りかかる。
「……これは、あれだよ。頭で聴いてちゃダメなんだ。」
「……え?」
思いもかけない言葉が返ってきた。
「この牧師さんは若い頃野球でならしてる。スポーツの世界はな、できるか、できないか、のどっちかだ。」
「……うん……?」
まだ飲み込めない、という顔つきで相づちを打つ。
「この牧師さんが話してるのは、道徳や頭で理解した知識じゃないぞ。生き方だ。等身大の、ごまかし無しの、生き方だ。」
「うん、お父さん。わかる。わかるの。だから、困ってるの。」
助けて、と上目使いに父を見る。
「……おまえまた、やっかいな……いやすまん、やっかいは言い過ぎだな。何て言うか……もうちょっと、学問的な道徳話でもしてくれる牧師さんだったら簡単だったのになあ……。」
頭をボリボリ掻きながら、道房は残ったビールを一気にあおった。
ベッドに入った美沙は、また考え続けた。
(やっぱり、私が書きにくいって感じてるのは、たぶん、間違ってないんだ。千尋ちゃんも、お父さんも、同じこと言ってる。でも…どうしよう?)
たかが学校の宿題のはずなのに。ミッションスクールがうらめしくなった。
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