恋愛、もとい愛のこと

恋愛の話をしよう。

愛着に問題を抱えた家庭に生まれ育った身にとって、若い頃の恋愛は唯一の光明であり、鬼門でもあった。

私の場合は、ろくでもない何かを多数渡り歩くというよりも、ひとりにガッツリ依存し、破局の際に深手を負ったくちである。

私個人の世界観もとい人生観そのものの話だが、全ては"何かひとつの大きなもの"のためにある、ような心持ちで生きていた(現在完了)ような気がする。

この精察をしながらも、"じゃあバランスをとるのは何のために?"という微かな疑問の声が頭のどこかで割とガッツリ聴こえているんである。

"何かのために"

私が追い求め続けているのは、おそらく"優しかったあの人と安心して一緒に過ごしていた時の体感"なんやろう。一緒にいる間はそれなりに不満も沢山あったはずやのに。

ずっと、愛のために生きたかった。

その想いが私にもたらしたのは越えなければならない試練の数々やったけど、果たしてそれらを超えられた試しはなく、そろそろ大きなボタンの掛け違い的世界観から目覚めるべきときなのかもしれない。

もし、恋愛もひとつの人間関係なのだとしたら、私は他者を愛おしく思うきもちを大切にしていれば良いのかもしれない。

掛け値のないその気持ちを集めて大切に味わっているうちに、その想いをお互いに最大化し得る組み合わせに、そのうちに出会うのかもしれない。

今の私は推しを好きだが、庇護欲や承認欲より、愛おしさを感じることができたとき、この恋は私の人生を、本当の意味で幸せにしてくれるような気がする。

どこに焦点を当てるかが自分次第であるなら、私は鳩尾を抉られるような切実な憧れよりも、小さな子どもや犬が向けてくれたときに感じるような純粋な好意を、あの人への想いの中に見出して、大切に広げて、そうして彼女がいちばん嬉しい形で、それを伝えたい。

最近の私は、推しに対してどこか好き避け気味であった。いまこうして精察する中で思うのは、自分の想いを価値あるものと思えていなかったんやろうと思う。

その理由を、私は自分の自己肯定感のなさに見出そうとしていたけれど、実際には、表現するに相応しい本体の想いが顔をのぞかせるのを、無意識で待っていたのかもしれない。

空や花や動物に掛け値なく大好きだと思われて、嬉しくない人はいない。あなたの笑顔に、私はそれを見ていたんやね。今度は私が返す番やね。

恋愛のことはわからないけれど、世界はまだまだ、愛には溢れていそうな予感がする。

私は、とんだ見落としをしていたのかもしれない。

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