わたくし

毒親育ち元生きづらい系社会人です。年齢不詳顔。別名義で、育ちを一切匂わせない「クリエイ…

わたくし

毒親育ち元生きづらい系社会人です。年齢不詳顔。別名義で、育ちを一切匂わせない「クリエイター」活動をしていたため、知り合いに見つかることなく綴れる媒体が欲しくて、こちらでは匿名性高くぼやいていきたいと思います。

最近の記事

安心

私の好きな人(恋愛ではなく)が、私を見ると安心すると言ってくれて、それが嬉しかった。 私もその人を好きだけど、その人に尽くしたり媚びたり気を遣ったりしたことは一度もないから、何もしてなくても、私が誰かに安心の気持ちを与えていたことが、嬉しかった。 推しは、カッコよくて好きだけど、緊張する。 安心するって、良いね。

    • 私のもの

      誰かの情熱に、誰かの素晴らしい物語に触れ続けていれば、自分もその世界の一部になれるような気がしていた。 誰かの夢を応援して、誰かの好きなものに共感して、コミットし続けていれば、その光に苦しみは溶けてなくなるんだと思っていた。 それなのに、「家族仲が良く」「センス良く」「自由で」「エネルギッシュ」な人の話を読んだり聴いたり一緒にいたりし続けていたら、 ある時を境に、気分が悪くなり始めた。 その素敵な本を読みながら、ゆっくりと胸を塞いでいく居心地の悪さに目を凝らした。 そ

      • 祈り

        私が誰の理想にも自分を寄せず 誰も自分の理想に近づけようとせず ただ自分の求めることをやり 在りたいように在り 心地の悪さや焦りに飲まれそうになったときは それを罰さず気づいていられるように 失敗を責めず、全てを傍に置いて いつでも自分の中に帰れるように 自分の心と身体が、自分の魂にとって 安心安全であるように

        • 素直に

          うんと若い子の恋愛番組をたまたまみてたら、自分にも、初恋がちゃんと存在したことを思い出した。なんの矛盾もなくその人のことが世界でいちばん好きだったあのときのきもち。 色んなこと、全て傍に置いて、あのときの気持ちをもういちど願おう。 あの頃、色んなきもちを強く強く抱いたけれど、その中の、いちばんうれしかったきもちだけをもういちど思い出して、それを、もういちど体験するって決めちゃおう。

          星がすごい

          こんなもん匿名だから書き散らかせるわけだが、最近、ホロスコープってやべえと実感している。 若い頃は、アスペクトを細かく読んでいく覚悟がなかったのでなんとなく都合の良い解釈になりがちであったが、最近は便利なツールも多いので、ハードアスペクトにも目を向けられるようになったわけで、そこではたと気づいたことを自分用にメモしておきたい。 いわゆる「結構やばい組み合わせのハードアスペクト」を紐解いていったところ、そのうちのいくつかのもっともエグい組み合わせの特徴は確実に「推し」っぽい

          愛の海

          最近、いわゆる西洋占星術のホロスコープをみていて、初見ではないにも関わらず、いろんな意味でぞっとした。 同時に、「星との付き合い方」は私が主にこの一年で痛感してきた、感情の取り扱いとかなり近しいものを感じた。 つまるところ、「そのままを認め」「陰陽どちらも認めた上で」「自分にとって+の体感のくる方の解釈を選ぶ」ということである。 まあ、キツいことで有名なのは、海王星のハードである。これが、ちょっとマジかという組み合わせでアスペクトを形成しまくってるんである。 海王星に

          systematic chaos

          ふと、もっと開き直ってしまえば良いのではないかと思う。 私は、何を恐れているのだろうかと思う。 今、嫌われて困る他者が存在しているだろうかと思う。 ここにいられなくなったら終わる、と思い込んでいるコミュニティが今、存在しているか問う。 本当に自分を好いてくれる人と出会う為には、理想を被せやすい自分でい続けていてはいけないだろうと思う。 相手の気に入るだろう要素を自分の中から引っ張り出して表現するより、自分が自分を好きだと思う自分の要素を選んで表現して、それを好いてくれる人と

          systematic chaos

          光差す道を選ぶ

          久しぶりにfacebookを開いたら、昔どっぷり浸かっていた、とある業界の知人の煌びやかな近状が更新されていた。ここは匿名の場所なので詳しくは語るまいが、要するに、その知人とやらは、超ド級の生まれながらセレブなんである。 「昔の自分は、ここで成り上がろうとしていたのか・・?」というのが今の私の正直な心境である。 そこは、「努力が報われづらい場所」であった。その知人が努力していないというわけでは決してなく、土俵に上がれるか上がれないか、そもそもが貴族か否か、みたいな、そうい

          光差す道を選ぶ

          やりたいこと

          なぜかよくわからないけれどやりたいことは、大切にした方が良いとよく言われるが、それは本当にその通りだと思う。 だがしかし、本当に大切にすべきは、「やりたいことをやっていく」中での「自分の心の動き」である。生きづらさの中でもがいてきた人間が、やりたいことに出会って一発解決になるわけではないことは肝に銘じて置けというのは、自分自身へのメッセージに他ならない。それって「運命の人」に出会えることさえできれば一撃で生きづらさが解消される、みたいな世界観に近い気がする。 思うに、やり

          やりたいこと

          強運

          何かいやなことがあったとき、昔は、益々それに向かっていくようなところがあった。逃げないこと、相手に立ち向かい続けることが強さだと思っていた。 今は、自分を安全なところに避難させることができることが強さだと思うようになった。 こういうことを、本当に最近まで(もしかしたら今日の今日まで)私は他者に望んでいた。(それはつまり「親にしてもらえなかったこと」である。) 言い換えると、親がしてくれなかったことで、私は、「自分が自分に行う」機会を得たのである。あるいは「されなかった」哀し

          強さ

          最近「好きな人」=「いやな感情を感じることに罪悪感を覚える人」という刷り込みが入っていることに気が付いた。 肉親だろうが恋人だろうが親友だろうが上司だろうがクライアントだろうが何だろうが、されていやなことは、当たり前に存在する。私が探し求めているのは「自分がいやなことを一切しない」相手なのか。そういう相手をこの世に1人見つけられたら、それが人生のゴールだと思っていたのではないか。 あるいは本当の願いは「されたいやなことをいやだと感じる」ことのできる自分で生きていくことなの

          そのことに気づいた時、ガラスの天井を破ったと思った。その直後に、実際にはガラスの天井など存在しなかったことに気づいた。 私は、独立した無限の存在である。

          そのことに気づいた時、ガラスの天井を破ったと思った。その直後に、実際にはガラスの天井など存在しなかったことに気づいた。 私は、独立した無限の存在である。

          自分が被支配者でなくなれば、支配者もいなくなる

          自分が被支配者でなくなれば、支配者もいなくなる

          そして私は自分がいつも、いつでも、あらゆる鬼と化する可能性を認めて受け入れている。だからこそ私は私を誰よりも尊敬し、信頼している。

          そして私は自分がいつも、いつでも、あらゆる鬼と化する可能性を認めて受け入れている。だからこそ私は私を誰よりも尊敬し、信頼している。

          自分は元々愛の存在なんだから、本来は全てが快。外れて不快を感じて、戻りたければ戻ればいいし、戻りたくなければ戻らない選択をしたって良い、どっちでも良い自由があるし、どっちの経験も愛から派生してる。だって愛の存在だから、外れても愛。心から戻ったらもっと愛。

          自分は元々愛の存在なんだから、本来は全てが快。外れて不快を感じて、戻りたければ戻ればいいし、戻りたくなければ戻らない選択をしたって良い、どっちでも良い自由があるし、どっちの経験も愛から派生してる。だって愛の存在だから、外れても愛。心から戻ったらもっと愛。

          不快になったら、寄り添い、段階を一致するまで調整し、体感のくる、愛の選択肢を選び直して経験するだけ。

          不快になったら、寄り添い、段階を一致するまで調整し、体感のくる、愛の選択肢を選び直して経験するだけ。