強さ

最近「好きな人」=「いやな感情を感じることに罪悪感を覚える人」という刷り込みが入っていることに気が付いた。

肉親だろうが恋人だろうが親友だろうが上司だろうがクライアントだろうが何だろうが、されていやなことは、当たり前に存在する。私が探し求めているのは「自分がいやなことを一切しない」相手なのか。そういう相手をこの世に1人見つけられたら、それが人生のゴールだと思っていたのではないか。

あるいは本当の願いは「されたいやなことをいやだと感じる」ことのできる自分で生きていくことなのではないやろうか。されていやなことは、誰が相手でも、冷静に、穏やかにNoを言える自分でいたいのではないか。

自分がされていやなことを、しない自分でいたい。それには、いやだと感じる心の動きを知っている必要がある。心の痛みは、自分に伝えている。
「それをしてほしくない。それをする人に近づいてほしくない。」と。

痛むことから逃げるのは、自分を信頼していないからである。痛む心から目を背けることは、「よかれと思って」聞く耳を持たない毒親と同じである。

私の望む強さや勇気とは、自分の情けなさや痛みを誤魔化さないことである。痛みと共にうずくまる時間を持てることである。それを経た後に、自分の願いに耳を傾けて、その方向に進んでいくことである。

そのためには、私は「私」に、本音を言ってもらわないといけない。

自分の中で、自分自身が随分と引き裂かれていたことに気付く。
自分の中で、自分が二の次になっていたことに、気づいていたつもりでいたが、更に深く気づく。それまでの気づきは、毒親傘下の被害者意識の元での気づきだった。それを、自分の責任として引き受けること。

「私」には、本音を話してもらう勇気を。
「私」は、その本音を最優先に行動する覚悟を。
「私」は、それを心から望む強さを。

私にとっての強さとは、自分自身に対する忠誠心の高さである。
全てはそこから展開する。


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