systematic chaos

ふと、もっと開き直ってしまえば良いのではないかと思う。
私は、何を恐れているのだろうかと思う。
今、嫌われて困る他者が存在しているだろうかと思う。
ここにいられなくなったら終わる、と思い込んでいるコミュニティが今、存在しているか問う。

本当に自分を好いてくれる人と出会う為には、理想を被せやすい自分でい続けていてはいけないだろうと思う。
相手の気に入るだろう要素を自分の中から引っ張り出して表現するより、自分が自分を好きだと思う自分の要素を選んで表現して、それを好いてくれる人と関係を作っていったほうが良いのではないかと思う。
それをやってみて、仮に失敗したところで、何が困るのかを問う。

例えるならば、こうだ。
私の顔は、マリメッコっぽい顔をしているとして、人は私にムーミンを期待する。確かにムーミンも好きだけれど、私にとってフィンランドはプログレッシブヘヴィメタルでしかない。

でもフィンランドって、そういう国だろう。
・・・あれ、なんか矛盾が解けた。

なんとなく、そつなくその場に存在するために自分をころしつづけるくらいならしんだほうがましだというのがロックじゃなかったのか。
そのロックな自分でさえ、いつの間にか誰かが望む姿にすり替わって、それで、また他のイメージに逃げ込んで、その繰り返しだったけれど、本当は、そのとき自分が心底好きだと思う音楽を聴いて、かっこいいと思う自分で在れさえすれば、具象はどうでも良いのではないか。

それを、掴めない、気まぐれだ、一貫性がない、よくわからないと他者に思われても、自分がそれをイケてると思えて機嫌よくいられれば、何も怖くないし、何も問題ないのではないか。



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