愛の海

最近、いわゆる西洋占星術のホロスコープをみていて、初見ではないにも関わらず、いろんな意味でぞっとした。

同時に、「星との付き合い方」は私が主にこの一年で痛感してきた、感情の取り扱いとかなり近しいものを感じた。

つまるところ、「そのままを認め」「陰陽どちらも認めた上で」「自分にとって+の体感のくる方の解釈を選ぶ」ということである。

まあ、キツいことで有名なのは、海王星のハードである。これが、ちょっとマジかという組み合わせでアスペクトを形成しまくってるんである。

海王星については、色んな方が色んな見識を述べているのでここでは深く語るまいが、色んな情報をみたときの自分の心の動きを自分の為に記録しておきたい。

ネットの海で、海王星ハードについてのおそらく最も辛辣な見識を目の当たりにしたとき、素直に「そうかあ」と思った。

そうかあ。私がやっていたことは全てまやかしで何の意味も価値もなく、無駄でしかなく、金銭の何かでこそなかったけれど過去の人間関係は殆ど全員詐欺師同様で、私はパラノイアだったのかあ。そういう人も確かにおったしなあ、好きだった人も、結局私が美化していただけで実はヤバい人で、私は人をありのまま認めることができない人なのかあ。そうかあ。そうかもしれないなあ。

今思うと、本当に今思えばだが、このとき、私は初めて、自分の海王星的側面のいわば陰の要素にジャッジを入れず、ありのまま認めたのである。この時の体感は、無である。

ぼんやりそう思いながらネットの海を進んでいくと、また違う角度から海王星について述べられたブログに辿り着いた。
そこには、私がずっと自分に言い聞かせ続けている「一致」について述べられていた。海王星には、その人を、その人の一致へと無理やり引き戻す厳しい働きがあると、そういうようなことと共に、その書き手の方が、愛とは何かと思うかが、真摯に述べられていた。(「ほしみっけ!」というタイトルのブログでした。)

そのとき、私は、私の好きな人のことをなぜ好きになったかについて、自分が勘違いを起こしていたことに気が付いた。私は、その人から、愛をもらっていたのだ。そして、自分の本当の願いは、愛することだったのだ。同時に、その人だけではなく、自分が愛をもらった瞬間のことを、思い出した。

それから、私の中で、無意識に慣れ親しんだ、演じることや欲することや媚びることや庇護欲を掻き立てること(所謂海王星のネガティブとされる側面)の癖が、所有願望と一緒になったとき、「混乱」が生じていたのだと気が付いた。

前述のブログの書き手の方は、愛とは自分を生かし、相手を生かすことであると仰っていた。その言葉は、私の中で全てを繋げるには十分だった。

私のラジオを聴いている人がいたら、覚えていますか。
「カップのエースの逆位置」に気付くことが、望ましい結果に繋がると。
それは、私の海王星の、今まで光を当てられてこなかったけれど確かに存在した側面でした。

その裏側には、本当に一致した自分を生きることで、一致した愛を実現したいという願いがありました。

夏至の日に、ようやく私の太陽は、海王星に届いたのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?