うつし世はゆめ
こんばんは。みなさまいかがお過ごしでしょうか。私は、今日は近年稀に見る、かなり調子が良く、活動的な一日でした。活動的と言っても、私の中では、に過ぎず、ただ朝にきちんと起きて、大学の授業を全て受けて、公務員試験対策の予備校にも行って、最後まで授業を受けた、というだけなのですが。それでも、健康な人にとって当たり前の日も私にとってはとても良く出来た日なのです。
鮨詰めにされたスケジュールを機械的に淡々とこなしていると、時折、どこか自分が現実にいないような感覚に襲われることがあります。そんな時はいつも、「うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと」という江戸川乱歩の言葉を思い出します。江戸川乱歩が著したこの言葉が有名になり過ぎてよく忘れられているのが、この言葉は元を辿ればミステリー作家の生みの親とも言われるエドガー・アラン・ポーの「夢の中の夢」という詩の最後の、「われわれに見えるもの 見える気がするものは すべて夢の中の夢に過ぎない」という一節から来ている、という事実です。私は高校生の頃にポーにはまり、その後進路を英語系に変えるほどポーが好きなので、これに対しては少しもやっとしています。そもそも江戸川乱歩の名前は敬愛するエドガー・アラン・ポーの名前を日本語にもじったものですしね。
私の私的な情は置いておいて、この言葉は的を射ていると思います。胡蝶の夢、という言葉にもある通り、私たちの生きているこの世界は全てゆめまぼろしに過ぎず、終えてみれば蝶の見た一瞬のゆめだった、なんてことがあるかもしれません。私たちが実体験として触れるもの全てやそもそも自分の肉体自体が何一つ本当は実在せず、脳みそだけが仄暗いホルマリン溶液の中で生かされている、なんて妄想もよくします。
自分自身の感覚すら信じられないなんて、じゃあ、何を信じればいいんだ?と言われるかもしれません。ですが、私は、これは楽観的に捉えると、実在するかも分からないこの世に執着する必要はなく、気楽に生きればいい、とも捉えられると思います。どうせゆめまぼろしに過ぎないのなら、好きなことをしよう。夢の中で私たちが自分の衝動のままに行動するように。そう、思える気がするのです。
私は毎日は健康的なまともな生活は送れないし、一日中寝込んでいる日だってある。でも、私は、それを気にするより、自分の体と心が赴くままに、自由に生きたい、と思います。だって、この世は蝶の見るゆめに過ぎないのだから。
それではまた明日。