掃除の会に参加して学んだこと28 ~ 目の前の便器を徹底的に綺麗にすることで、物事に向き合う力が養われる。
掃除の会では、学校や公園などの公共施設のトイレを掃除させてもらうことが多いです。
掃除の仕方や掃除するところなどは、参加する人数やそれぞれの場所によって異なりますが、だいたい、掃除する便器を一人一つ担当します。
長年、掃除されていなかったり、使い方が雑だったりする便器は、やはりひどく汚れています。臭いも半端ありません。
そして、掃除しがいがあります。
逆に、定期的に掃除がされているところは、ぱっと見は便器も白く、とてもきれいに見えます。
しかし、実際に掃除が始まり、しっかりと担当する便器と向き合ってみると、いろんなことが見えてきます。
・白くは見えていたけど、近づいてよく見ると、うっすらとほこりをかぶっている。そのため、真っ白ではなく、クリーム色っぽいところがある。
・上から、正面から等、一定方向から見ると汚れていなさそうだったけど、便器の裏側や、横から等の角度をつけてみると、汚れがある。
・小便器では、尿こしを取り出してみると、尿石がいっぱい付着している。
・大便器では、水がはっている奥(排水溝)の裏側はぬめぬめして汚れの存在を感じる。
その後は、ぱっと見では気づかなかった汚れと向き合い、どうしたらうまく汚れを落とせるかと考えながら、道具や自分の動きを工夫して掃除していきます。
もちろん、はじめから、便器に大便がついているところもあります。
正直言って、
「ちゃんと、便器の中にしてよ!」
「自分でしたことは、自分で後始末してほしい」
と、いろんな気持ちが渦巻きますが、自分が担当したからには・・・としぶしぶではありますが掃除していきます。
しかし、便器をひたすら磨いて、細かな汚れ、裏側の汚れなどをきれいにしていると、そんなネガティブな気持ちもだんだんと消えていきます。
むしろ、
「自分も毎日トイレ(便器)を使っているんだな」
「自分が使用した後に、ちゃんときれいにできているだろうか」
「冬の寒い時に、保温もされていない便座で、子供達は冷たい思いをしているだろうなあ」
「トイレの神様(便器)は、毎日、毎回、みんなが汚い、臭いと言って敬遠する排泄物をちゃんと受け止めて、流してくれる。ありがたいなあ。」
などの気持ちが湧き起こってきます。
実際、震災が起きて避難所生活が始まると、食料や寝る場所の確保とともに、重要になってくるのが「トイレ」になります。
特に、ライフライン~水が思うように使えない時は、排泄物がたまります。不衛生であり、感染症や別の病気の原因にもなってきます。
トイレが大変な現状の中で、使用を控えようと、水分を摂取する量を減らす人もいて、健康を害することにつながることもあります。
そんなことも知ると、なおさら、トイレのありがたさや尊さまで感じます。
また、日頃、生活に欠かせないものなのに、
「次の会議までに、~の資料を作んなきゃ」
「はやく、~が終わんないかな・・・」
などと、別の事に気を取られながら、トイレを使用している自分を振り返る事にもなります。
食べ物についても同じことが言えます。
仏教には「四分律行事鈔」というお坊さんに向けた指南書があります。
毎回の食事の前に唱える5行の言葉が書かれていて、その一つ目は「計功多少量彼来処」。
目の前の食事が提供されるまでに辿ってきた道、人々の思いやもとになった命に目を向けるといった意味
があります。
目の前に、焼き肉があったとして、
・肉を焼く人
・肉をさばく人
・その場所まで運ぶ人
・肉を解体する人
・動物を育てる人・・・
育てるにしても、飼料が必要ですし、解体、さばくにしても道具が必要で、それを作る人たちも存在します。さらにいえば、水や太陽や土や・・・といろんな力があってこそです。
そうやって、向き合ってみると、ただ「おししい、まずい」だけではなく、ありがたい、本当に「いただきます」という思いにもなります。
食事やトイレの使用は、生きる上で欠かせない行為です。
でも、毎日の行為だからこそ、慣れで、何となく、意識や気持ちはあちこちに行った状態で、向き合っていないことも多いです。
ただ、掃除の会に参加することで、月に数回であっても、便器と向き合う時間を持てていることは、有難いことだと感じています。
そして、
毎日、毎回は難しいにしても、食事やトイレに対しても、まっすぐ向きあう時間を多く持ち続けたいと思います。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
皆様の心にのこる一言・学びがあれば幸いです
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