絶望と自己責任論の内面化、解離について
読んでいて不快な気持ちになる箇所があるかもしれません。ただの日記です。
毎日夜になると、気分の落ち込みが激しくなり、悲しくて不安でたまらなくて、この感覚から一生逃れられないことにとてつもない苦痛を感じます。そんな状態が毎日毎日、何年もつづくと、もういい加減うんざりして本当に終わりたくなってしまうときがあります。それでもいざ死のうとすると躊躇するので、死にたいと感じながら同時に生きたいとも感じているのだと思います。死ぬのが怖いとか、もう少し前向きな、まだ諦めたくないとかいう気持ちもあります。ただ残念なことに、私は世界に対して絶望してしまっているために、希望やぬくもりのようなものが私の自殺を思いとどまらせたり、希死念慮を和らげたりすることはあり得ません。
私はこのことがいつも悲しいのです。なぜなら、どんなに優しい友人に囲まれても愛おしい思い出を共有することができても、私の心は満たされるばかりか死への渇望から片時も離れず、不信感と現実感の無さを生きているからです。私は、周りのあたたかいもの全てに申し訳なくて、自分のどうしようも無さやもう何もかもが手遅れなことが本当に悲しくなってしまうのです。
そういう世界への絶望感は、自分自身だけでなく他者に対しても向かいました。そしてそれは人生設計やもっと身近なところで言えば大学の研究計画にも悪影響を与えました。マイノリティーの権利とか平和構築とか、世界への全面的な信頼感のうえに成り立つ議論に参加できなくなったからです。
「生産性のない人間は生きている価値がない」
自分自身に貼られたスティグマ(勿論こんなことを直接言ってくる人はいませんでしたが、世間からそう思われていると感じるには十分な経験をしてきました)、その価値観をいつの間にか内面化しました。自己責任論や社会的弱者の権利を顧みない(治安維持や罪悪感のために一定程度の生活は保障しても、自分と同等かそれ以上の利益を得ていたら許せない)考え方は、従来の私から最も遠いところにあったはずなのに、今はその考えの中にいます。その結果、大学というリベラルな社会で過ごすなかで板挟みになって苦しみます。
尤もこれは、私特有の問題ではなく世界中でリベラルな社会が急速に進行している現在、あらゆる人にレベルを変えて起こっていることかもしれませんが。
それでも、常にそのような絶望のうえに成り立つ論理に支配されているわけではないのです。ごく短い時間ですが、連帯や希望を信じる世界に戻ろうと必死にもがきます。その前後で起こる心理変化はまだ言葉で表せません。ただ、ほっとすると同時にずたずたに切り裂かれるのです。このふたつの価値観に基づく人格が、私の解離現象の一部かもしれません。
絶望を乗り越えて強くなったとか、より正義を信じられるようになったというような言説をまだ信じることができません。そういう人の絶望は、所詮それまでのものだったのではないかと疑うことをやめられません。特に大学での研究や職業選択においてこのような不信感や絶望、攻撃性とどう折り合いをつければいいのかはまだ分からないです。本当は希死念慮も含めた世界に対する根本的な絶望感に対処できればいいのですが、それはほとんんど不可能なのですから。ただひとつだけ、自分と約束したいことは、これからも、未だに希望に立脚する世界を覗こうと頑張る自分自身を励まし続けるということです。それが私の周りにある、あたたかいものたちへのせめてもの償いになると信じています。
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