機能不全家族の「問題」は私だった

 「私の家族は、私がいなければ完璧なのになぁ。」
子どもの頃にずっと感じていたことです。両親と姉もそう思っていたし、きっと今も思っているだろうと感じます。

 母子分離不安の酷かった私は、幼稚園や小学校受験の塾では問題児でした。母が帰ろうとすると泣き叫び、周囲を困らせました。「泣かない約束」を守れない、周りのみんなと同じようにできない自分は卑怯で弱いと思いました。
 受験当日も両親とスムーズに離れられず、私は自分が落ちたことを確信しました。不合格の通知が家に届くと、母はこの世の終わりかのように泣き崩れました。私は、母がまた元気になってくれるのかを心配していました。一般的に早生まれは小学校受験に不利とされますが、さらに精神状態の不安定な私の受験は、母の強い希望でした。田舎から出てきた母が自分のコンプレックスを解消させるために、父と親戚が多く卒業したその小学校へ自分の子どもたちを入れることに拘ったそうです。「あなたの将来のために」と強制された永遠に続くかのように思えたあの塾通いは、ただただ母のためだったのかと、とても虚しくなりました。しかし当時はそんなことも知らないので、「私の人生は終わったかもしれない」「私のせいで家族が恥ずかしい思いをする」と思いました。

 幼いころの私は自分の感情、特に家の中では怒りをうまくコントロールできませんでしたが、母はそのような私の状態を「頭が狂っている」「病気だ」と侮蔑し、父にいたっては、自分に都合の悪いことが起こるとキレ散らかすことで、私に不適切な感情表出を学習させました。
 父はまた、人を小馬鹿にしたり揶揄ったりすることでしか「楽しい」コミュニケーションを取れませんでした。姉もこの間違ったコミュニケーションスタイルを学習し、よくわたしを揶揄って馬鹿にしたのですが、それに対して私が激しく怒って泣いたのでしょっちゅう酷い喧嘩になりました。その度に母は、私の怒り方がいかに父にそっくりなのかを言い連ね、アスペルガー症候群や人格障害を疑って何度も児童精神科に連れて行きました。そこでは虐待やDVは隠さなければならないことでした。特段口止めはされていませんでしたが、母が巧妙にそれらの話を避けて相談する様子を見て、隠し通さなければならないのだと感じました。私は嘘を言うばかりか、心理テストの回答すら親子関係の歪さがバレないように必死に取り繕いました。その瞬間、私は明確に機能不全家庭の被害者から共犯者になりました。そして、この家族の問題の責任は自分にあるのだと知りました。

 中学生で鬱病による不登校になると、父からの激しい暴力が始まりました。当時高校生の姉が家に寄り付かなくなると、母は「こんな家だから帰りたくもなくなる」「学校でも妹の不登校を噂されて可哀想」などと私を責めました。私は、本当にその通りだと感じました。しかし姉は、私の不登校をそのような理由で責めたことは一度もありませんでした。そのことが、私の姉に対する信頼につながっていました。

 母もまた、姉を信頼していました。問題なのは、明らかに私よりも姉の方をよく信頼していました。例えば、学校関連で必要なものが出てきて伝えると「姉の時はこうだった」の一点張りで別のものを買おうとしたり、私の友人よりも姉の友人の方が元気でハキハキしていると好感を持ったりしました。特に私が公立小学校に通っていたときは、私の友人の家庭環境や経済状況を姉の友人のと比較して探ったり軽蔑したりしました。母が私の話よりも姉の話を重視することは常態化していましたが、虐待の認定などにより私はもはや両親に愛情を感じていなかったので、そのことについても何も感じていませんでした。

 私たちの信頼が最大の危機を迎えたのは、私が虐待を告発したときでした。姉は虐待はなかったと嘘をつき、そのせいで私は疑われました。また、信頼する長女の証言は母を安心させ、虐待を認めない姿勢を一層頑なにしました。母は頭の狂った次女が妄言を吐いてまた家族を混乱させた、という状況に矮小化しました。私は姉と一緒に戦っていきたいと思っていたけれど、警察に言わないことを約束させられました。これは確実に私に対する裏切りでした。実際にあった犯罪行為を無かったことにして、異様な家族ごっこの継続を強要することだからです。私は自分の記憶を疑い、解離とひどい混乱状態に陥りました。
 虐待という自分の根源を揺るがす出来事と向き合うには、計り知れない苦しみがありました。それは自分が愛されなかったと認めるだけでなく、過剰適応したハラスメントだらけの家の秩序や価値観をかなぐり捨てることだからです。そしてそれは、今までの人生のほとんどを喪失することであり、フラッシュバックや虐待の後遺症でぼろぼろになりながら新たに自分自身を作っていくという、非常に骨の折れる作業でもあります。
 私は、このような苦行と向き合うにはそれぞれのタイミングがあることを理解して、姉を信じて待つことにしました。姉もそんな私と関係を続けてくれました。

 今年の2月、私は精神科病院に入院することになりました。夕食時、入院の日程について母と話していると姉が割り込んできました。いつもの、自分はよく状況を理解できていて、馬鹿な2人の会話の論点を整理してあげます、というような口調でした。姉はおそらく家庭環境のストレスから逃れるために「神視点」から物事を見ることが習慣化したためか、高慢で尊大なところがありました。私は、普段は怒りをコントロールできるようになっていましたが、何年ぶりかくらいにキレました。イライラがピークに達して死んでやろうと思い、食卓を立ってパジャマのまま外に出ました。1時間くらい歩いていつも自殺を試みる橋に辿り着きましたが、その頃にはなんとも気分が高揚していました。いわゆる躁状態だったのかもしれません。そのまま橋を通り過ぎて、歩いて歩いて、独り言が止まらなくなりました。LINEを見ると姉から「サンダル返して」と連絡が来ていました。咄嗟に外に飛び出た際に姉のサンダルを履いてきてしまっていたのです。私は家に引き返し、サンダルを勝手に履いていったことを、姉にハイテンションで詫びました。

 姉は私のその病的な様子に腹を立てたのか、私に馬乗りになり口を塞ぎました。私は身の危険を感じて今度は裸足で家を飛び出しました。姉が追いかけてきて私を殴り、「やり返せよ」と言ってきました。意味不明ですが、彼女も混乱していたのだと思います。私はそこで「あなたや父とは違うので暴力は振るいません」と伝えると、姉はその言葉に激昂したのか、絶縁を言い渡して家に帰ってしまいました。私は咄嗟にふたりの関係を修復したいと願いました。しかし、直後に送られてきたLINEには「子どもの頃あなたがキレるのは大変でした。あなたのことを何度も許してきましたが、私は一度の失敗も許されないのですね。」という旨が記されており、私は、もう私たちは生涯姉妹に戻れないのだと悟りました。

  姉は「男の子みたいだから」という理由で、姉が知らないうちにお手伝いを免除されることが多々ありました。当時洗濯物を畳むのは私の役割だったので、絶縁を宣言されてからも姉が家を出るまではしばらくの間、姉の分を畳んでいました。彼女は部屋の片付けができないので、私の洗濯物が姉の部屋に紛れ込んでも出てこなかったり、姉がやらなかった彼女の分の皿洗いをやらされたりしました。その際、母から姉がどんなにだらしないのかの愚痴も聞き続けたし、少しでもフォローしようと頑張りました。だらしのなさは彼女の精神的な問題からくるものと推測して、イライラしても指摘しないように気をつけていました。両親との話には割り込まないようにし、実際にこの10年以上、姉と親とがしている会話に割り込んで自分の意見を述べるというようなことは一度もしませんでした。

 私にはアンガーコントロールの問題があり、姉に迷惑をかけました。しかしそれは父の不適切な関わり方が大きく影響し、種類は違えど姉にも「上から目線で人を馬鹿にする」という対人関係の問題がありました。私はそれに大いに迷惑してきたし、日常的に馬鹿にされたり意地悪をされたりすることで、自信を喪失しました。また、姉は私との喧嘩をストレス発散としており、わざと私を刺激していました。このことは小学生の時にはすでに姉から明言されていました。しかし、そのような状態になったことも、すべて家庭が機能不全であるが故だと考えていたので、姉のことを責めようとは思いませんでした。それなのに姉は、私のみがおかしくて、自分が一方的に被害を被り、我慢し、許してきたと思っていたと知り、愕然としました。

 絶縁後、最後に答えてくれと送ったメッセージに、「虐待はあった」と返答してくれたことが唯一の救いでした。「私がそう言わなかったことで辛い思いをしたならごめんなさい」とも書いてくれましたが、正直そんな一言で済む辛い思いではなかったです。「真実を語る力の不均衡」という暴力に切りつけられて、弱い者は悉く最後まで傷つけられるのだと思い知りました。私は自分自身も、なにも信用できなくなり、世界がモノクロに変わってしまい、未だに色を取り戻しません。

 機能不全家庭で育った兄弟が良好な関係を築くことが難しいとは知っていましたが、私たちは大丈夫なのではないかとどこかで思っていました。それぞれのパーソナリティであるように感じられる問題を、機能不全家庭ゆえのものだと理解していたことと、虐待に対する認識や対応の違いという最大の難関を突破できたと考えていたからです。家族は得られなくても、姉妹は壊されないように最大限の努力をしていきたいと思っていました。こんな言い方は傲慢ですが、私なりに姉を一生懸命ゆるしてきました。

 しかし努力は虚しく、姉にとって私は、最後まで「問題」でした。私はもはや、どうすればいいか分かりません。ただひとつ、今はっきりと分かるのは、そのような扱いが不当であるということです。私は無力で無邪気な子どもだったのに、狂った家の秩序の中で、機能不全家庭の責任と原因を不当に押し付けられてきました。私はもう秘密の重荷を下ろしたいです。間違った価値観を捨てるために、どれだけ苦しくてももがき続けます。だから私は「問題」から、「生贄」から、わたしに戻ります。


 (最近話題になっている件について、姉のことをよく思い出します。全ての児童虐待において、どのような立場でどのような被害を受けたかに関わらず、子どもは捻じ曲がった価値観に適応させられた無力な存在でした。彼らは共犯者の前にまず被害者であり、専門家とあたたかい社会という支えを必要としています。もちろん、彼らが何らかの加害を行なったならば相応の刑事罰が必要です。しかし、具体的な犯罪行為を行っていないのならば、迎合し価値観を内面化してきたことに対して、彼らが受けてきた苦しみを軽視して第三者が批判することは、あまりに傲慢で無知だと感じます。全てのかつての被害者が、あたたかい支えと学習の機会、価値観をアップデートさせる勇気を持てることを祈っています。)

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