死にがいを求めてこの記事を書いています
朝井リョウさんの死にがいを求めて生きているの読みました☺️
今,この記事を書こうと思った動機,もしかするとこの小説で言うところの死にがいなのかもしれません…
決して彼らに共感したくはない
読んでいて最初に感じるのは,堀北雄介を筆頭とする登場人物に対する激しい共感性羞恥
小学生の頃には,棒倒しや組体操といった種目に本気になりすぎたり
中学生では,成績の張り出しに本気になりすぎたり
大学生ではジンパ(ジンギスカンパーティ)復活・学生寮の問題に首を突っ込む(もちろんこれも本気になりすぎ)などなど
総じて感じることは,この人必死すぎる…痛い…
しかし,読んでく中で確実に感じ始める微かな共感
共感したくないと思うと共に,本当に自分に通じるところはないか?
と問われると,絶対に自分はこんなことしません!と胸を張って言うことはとても出来ないです
文中でも,彼に対するこういった気持ちが表現されています
これを自分に当てはめて考えてみた
彼らほど必死に対戦相手を作り出している訳ではないが,自分にも同じようなことをした経験が思い当たる
今この記事を書くに至った理由,正しく対戦相手が欲しかったからではないだろうか…?
2022年11月前半まで私は資格試験の勉強をしており,立ち向かう対戦相手がいた
2022年11月後半である今,ちょうど対戦相手がいなくなった
どうしてここで,対戦相手が新しく欲しいと考えてしまったのだろうか
趣味の読書を活かした対戦相手を探す私
そしてこの記事を書くことを見つけた
堀北雄介ほど大袈裟でわざとらしい対戦相手ではないが,やる事が欲しいという動機で何か始める
これも同じような事なのではないだろうか?
ここでなぜ新たな対戦相手を探したのかよく考えてみる
周囲の人間の影響が大きいと思う
周りの友人は学業,旅行,新しく何かを習うなど何かと戦えている人が多い
ただ,戦えているっておかしな話です
誰も戦うことを強制したりなんてしていないのに,戦いたい!と言う気持ちだけで対戦相手を探すことを始めてしまうんですから
近況報告のための対戦相手
全てに必死すぎる堀北雄介
しかし,悲しいことに共感したくなくとも,その必死になりすぎる理由に心当たりがありすぎる
これは彼が友人に放った言葉
先ほどの私が対戦相手を探す理由にも通じる
彼のように大袈裟なネタを無理やり生み出さないまでも,近況報告という謎の議題に複雑な気持ちになったことのある人,きっといますよね
私はこういう時に最近特に何もないと言う事をなぜか躊躇ってしまいます.
こうやって,何か人に報告できるような事柄が欲しいと思い,無理やり対戦相手を作り出す
目的と手段がごちゃ混ぜになっていることが堀北雄介に対して共感したくないと思う要因だと思います
しかし,程度の差はあれ目的と手段が逆になっている経験があるからこそ,彼のことを完全に否定できないのです
堀北雄介に対する違和感を言語化したい
小説のタイトルにもある通り,このような彼の言動を死にがいと小説内では表現されています
そもそも死にがいって何なのか
死にがいの定義は堀北雄介の言葉を借り,以下の通りになるのでしょうか
ここまで彼に対して,あまりいい感情を向けてきませんでした
しかし,このように死にがいを求めて生きること,何か悪いことなのでしょうか?
もちろん,自分のためだけに生きられたら素敵だなという気持ちは大いにありますし,私もそうなりたいと思います.
ただ,最近思うのですが,自分の根本って変えること本当に難しいです
表面上では,自分がなりたい自分になれたような気がしていても,心の本当に奥底では中々理想の自分になれないこと,多い気がします.
友人の前では自分の時間が一番大事と言っていても,本心では彼氏に依存してしまうとか
だから,死にがいを求めて生きることで,役割を得たと安心して暮らせるのであれば,それでいいのではないかと思います.
ただし,その上で大事にしなければいけないことを,私はこの小説から見つけました.
それは,死にがいを求めて何かと戦う時,その戦いの中できちんと対話をすることです.
頓珍漢な堀北雄介ですが,素敵な考え方のできる友達がいます.その友達,智也の言葉を借りて,死にがいを求めて生きる上で大切な事を以下に記します.
雄介に対する違和感は,完全に分断した線引きによって自分の存在をまるで特別なモノかのように浮き上がらせていたことなんだなと思いました.
SNSで承認欲求を満たしている現代を見ると,自己肯定感って他人に評価されたり,認められることで認識されることがとても多いです
そんな現代において,自分一人で自分の存在に価値を見出してあげることってとても難しいのだと思います.
ただその時に他者を攻撃し,自分は違う人間なんだと0-100の線引きをすることで自分の価値を生み出すのではなく,
グラデーションを意識し,個々の色を尊重して何かと戦うことができれば,それはその人にとっても,他の人から見ても素敵な生きがいなのではないかと思います
対戦相手を無理やり見つけること
ここまでは別に悪くないと思います
その中で,自分から一ミリでもずれていると全て自分から遥か遠くに存在するものとする姿勢が堀北雄介が必死すぎると感じる要因なのだと思います
最後に
現在,死にがいを求めてこの記事を書いている私です.
もしグラデーションなんていらないんだ!と言う意見の方がいらっしゃっても,その意見も一つの色(と考えたい!)
この考え方自体理想論と言われれば理想論ですが
頑張って受け入れる理想と受け入れられないと諦める理想
ここにもきっとグラデーションはあって境界は,はっきりしていないはず
何だかややこしくなってきましたが,私はグラデーションの考え方を受け入れたいんです
自分の色と他人の色
決して混ざり合わずとも,対話が出来るような生き方をしたいです
余談
現在大学生の私.
小説内で舞台となっている大学所属なのですが,細かい描写がすごくリアルで笑ってしまいました.
某ラーメン屋の肉チャーは美味しいとか,大学祭の時模擬店の留学生スペースは少し無法地帯な感じとか…笑
あるあるすぎてクスッとしちゃいました
以上余談です☺️
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