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【読書】ほめることと、ほめられることの危うさ

今日は、『嫌われる勇気』〜自己啓発の源流「アドラー」の教え〜の3回目の読書会に参加してきた。

1回目、2回目の様子はこちらから👇

今回は、みんなで「第四夜」の章を朗読し合った。何度か読んだはずなのに、また次々と新しい発見があるのが不思議だ。

今回一番驚きのあった言葉は、

人はほめられることによって「自分には能力がない」という信念を形成していく

ということ。

え??逆だと思った。

人はほめられることによって自分には能力があると思うんじゃないの?


アドラー心理学では、ほめるという行為には「能力がある人が、能力のない人に下す評価」という側面があると考えられている。

例えば、夕飯の準備を手伝ってくれた子どもに対して、「お手伝いえらいわね」とほめる母親がいるとする。しかし、夫が同じことをした場合には、さすがに「お手伝いえらいわね」とは言わない。

これは無意識のうちに子どものことを自分よりも低く見ていることだという。さらに、ほめることには「自分よりも能力の劣る相手を操作する」という目的があるという。

ここまで聞いて、正直耳が痛かった。確かに、変に「ほめてしまった」と感じることは日常の中にある。そのとき、自分の中で素直な感想であるときもあるけれど、相手をコントロールしたいという目的もなかったとは言い切れない。

アドラー心理学では、すべての対人関係を「縦の関係」ではなく、「横の関係」とすることを提唱している。

先ほどのお手伝いの例で言えば、「えらいわね」という「上下関係」の声かけではなく、「ありがとう」という感謝の言葉や「嬉しい」という素直な喜び、「助かったよ」というお礼の言葉など、「対等な関係」の声かけが大切だという。


そして、一番大切なのは、「他者を評価しないこと」

評価もまた、「縦の関係」から出てくる言葉だからだ。ほめられるということは、他者から「よい」と評価を受けていることになる。そして、その行為が「よい」のか「悪い」のかを決めるのは、他者の物差しである。もし、ほめてもらうことを望むのなら、他者の物差しに合わせ、自らの自由にブレーキをかけるしかない。


前の章で、自由についてこう書かれてあった。

自由とは、他者から嫌われることである。(中略)他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。


この文章は、今の私に突き刺さった。「自由になりたい」と思いながらも、「でも誰にも嫌われたくない」「よく思われたい」という気持ちが手放せなかった。だから苦しかった。だから決断できなかった。

あと私に必要なのは、「嫌われる勇気」だけなのかもしれない。


「自分に嫌われないために、他者に嫌われることにした」

この言葉もいつかどこかの本で出会った言葉だ。

自分に嫌われないように、これから歩む道をしっかり見据えて選んでいこう。



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