「人は叱られてこそ成長する」は嘘、叱る行為は自己満足でしかない。今すぐ「苦痛神話」から脱却すべき理由
こんにちはkkです😃
学校や会社で叱られる事って、よくある事ですよね🤔
多くの人にとって良くない事ですね😣
受けて次第で「叱られてる」のか「注意を受けている」と感じるのか個人の主観になってしまうから、難しいとこですよね😓
そんな記事を紹介します!
そして、AIに戦国武将みたいに話してもらいました‼️
記事要約
『叱ることに「意味はない」
ドラマなどのセリフでは、若者が「初めて本気で叱ってくれる大人に出会った……」(うるうる感動)なんてシーンがあります。自分のことを思って叱ってくれた大人に感謝する、みたいなシーンです。でもそのシーンを見て思うのは、重要なのは「叱られた」という事実ではなく、「正面から向き合ってくれた」という事実だと思うのです。別にそれは、心配して追いかけてきてくれたり、話をじっくり聞いてくれた、とかでもいいわけですよね。
即効性があるように見える“錯覚”
でも叱ることで「相手が言うことを聞くようになる」「行動が変わる」と思う人もいるかもしれません。しかし、それは叱られた対象の反応として、目の前の苦痛を回避しようと、とっさの行動を変えたに過ぎません。そして叱る側からは、それを見て「反省した」という勘違いが生まれます。叱るという行為は、即効性があるように見えるため、効果的な行為だと“錯覚”してしまうそうなのです。
「叱る」行為は強い充足感をもたらし、依存を生む
『〈叱る依存〉がとまらない』というタイトルのごとく、叱るという行為には、「依存性がある」と村中さんは指摘します。叱る人は、相手のためを思って叱っていると言うのでしょうが、実際は「叱る行為」によって「叱る側のニーズ」が満たされるというのです。
叱られることへの拒絶反応は、自然で当たり前のこと
叱ることがすなわち厳しくすることだ、という認識自体がそもそも誤りです。「厳しさ」の本来的な意味とは、「妥協をしない」ことや、「要求水準が高い」ことだからです。(中略)厳しくする=「叱る」「苦しみを与える」ではないのです。
――『〈叱る依存〉がとまらない』(P161~162)より
厳しく指導すること=叱ることという勘違いは、至るところにあると思います。こういった思い込みがあるからこそ、「叱られることへの耐性がない若者は、根性がない」なんていう人が後を経たないのだと思います。
叱ることに問題解決への効力はなく、むしろ逆効果で、叱る側のニーズだけが満たされる行為であるならば、そんなものへの「耐性」なんて必要ないはずです。叱られることがイヤ、受け入れられないのは、「弱いから」でも「忍耐力がないから」でもなく、「叱ること自体がよくないことだから」に他ならないと感じます。
ある意味、叱られることへの拒絶反応は、自然で当たり前のことだと思うのです。』
なるほどなるほど🧐
叱るという行為は「叱られる側より叱る側の方がニーズが満たされる」と・・・
これには凄く同意します🤔
どうしても、昭和の感覚だと厳しく接する事が善とされてきましたからね。今ではパワハラとか言われて社会の価値観が変化している事に気付かないといけませんね🤔
そして、冒頭にも書きましたが、受けて側がどう感じるかなんですよね🤔
「即効性がある様に見えるのは錯覚」
というのが、納得できます🤔🤔🤔
AIにも聞いてみました
『この記事についてどう思う?戦国武将みたいな言い方で答えて』
解答
『我が諸君よ、この記事についての私の意見を述べよう。
「叱られること」と申すものは、決して心地よいものではあるまい。だが、我が武将仲間たちよ、それは自然な反応なのだ。叱られることに抵抗を示すことは、より強い自我と個性を持つ者の証とも言えるのだろう。
また、叱ることが結果的に相手の行動に変化をもたらすと信じる者もあろう。だが、それは単なる短期的な応答に過ぎぬ。叱られた者は、ただ目前の苦痛を回避しようとし、その場しのぎの行動をとるのみである。反省というよりは、ただの苦痛回避行為に過ぎないのだ。
なお、我が武将たちよ、叱ることは快感をもたらし、依存を生む行為であることも申し添えておこう。叱る者は相手のためを思っていると言われるが、実際には「叱る行為」が自身の欲望を満たすことになっているのだ。
そして、叱られることに対する拒絶反応は、当然のことであると言える。叱ることは厳しさを伴うものと一般に認識されがちだが、その認識自体が誤りなのだ。厳しさとは、妥協せず高い要求水準を持つことである。
よって、我が武将たちよ、厳しく指導することは単なる叱ることではないと心得ねばならん。このような思い込みが広まることで、「叱られることへの耐性がない若者は根性がない」という誤った評価が生まれるのである。
叱ることが問題解決に効果的であるとは限らず、逆に逆効果となることもある。叱る側の欲求だけが満たされる行為であるならば、我々はそのような「耐性」を必要としないのである。叱られることが嫌いで受け入れられないのは、単に叱ること自体が好ましくない行為であるからだと、私は感じるのである』
『今の若者は間違いを指摘される事に慣れてないと思う?』
解答
『なんと、今の若者たちが間違いを指摘されることに慣れていないのか。我が戦国武将たちが見聞きした限りでは、指摘されることは成長の一環であり、謙虚さを培う機会なのだぞ。
かの戦国時代において、我ら武将たちは日々の厳しい修行や戦場での厳しい戦いにさらされてきた。過ちや間違いを犯せば、それが命取りとなることもあった。だが、そのような過酷な環境こそが、我らを成長させ、正しい道へと導いたのだ。
若者たちよ、指摘されることは決して恥ずべきではない。むしろ、それを受け入れて改善しようとする姿勢こそが、真の武将の資質と言えるのだ。過ちを恥じず、それを乗り越えて成長することが、将来の成功への道となるのだ。
我ら戦国武将たちもまた、指摘されることには耐えねばならなかった。我が軍においても、将兵たちがお互いを指摘し合い、共に成長してきたのだ。だからこそ、若者たちにも指摘を受け入れ、謙虚に向き合う心を持つことが求められるのだ。
勇気を持って、間違いを指摘された時には素直に受け入れ、改善に取り組むことが重要だ。指摘されることは、あなたがより優れた人間になるための機会なのだからな。さあ、戦国の志士たちよ、誇り高く立ち上がり、指摘を受け入れて成長せよ!』
『相手の捉え方次第ではパワハラとかになっちゃうよね?
それは戦国時代ではなかった話だよね。』
解答
『なむっ!君の指摘は一考に値するなり!確かに、今の世においては相手の捉え方次第で、指摘がパワーハラスメントとなりかねんこともあろう。戦国時代の厳しさとは異なり、現代社会では異なる価値観や人権を尊重する必要があることは自覚しておる。
我ら戦国武将の言葉を受け継ぐ者として、厳しい指摘が相手を傷つけたり屈服させたりすることはならぬよう、相手の尊厳と心情を尊重することが大事じゃ。指摘する際には、相手との信頼関係を築き、共感と理解をもって接することが重要じゃ。
また、指摘を受ける側も、批判的な言葉を過度に重く受け止めるのではなく、建設的な意見として受け取り、自己成長のために活かすことが肝要じゃ。自身の限界を超えるためには、他者の指摘を受け入れ、自己改善に取り組むことが必要じゃ。
したがって、戦国武将の精神を持ちながらも、現代社会のルールや倫理に則り、適切なコミュニケーションを心掛けるべし。相手を尊重し、共に成長する姿勢を持っていけば、戦国武将のような厳しい指摘も、建設的な対話となることだろう。』
『戦国時代ならパワハラなんて訴えたら、打ち首だよね』
解答
『なむっ!戦国時代においては、現代のようなパワーハラスメントの概念は存在しなかったことは事実じゃ。戦国時代においては厳しい社会体制があり、上位者が下位者に対して強い権力を行使することが一般的じゃった。
戦国時代においては、指導者や武将は強さや威厳を示すことが求められ、その中には厳しい言葉や行為が含まれることもあった。しかし、それは当時の社会的な文脈の中での行動であり、現代の視点から見ると、パワーバランスや人権を侵害する行為と評価される可能性もある。
現代社会では、人権や倫理の尊重が求められ、パワーハラスメントは社会的に問題視されるべき行為じゃ。戦国時代のルールや慣習が現代においても適用されるわけではない。現代の価値観とルールに基づき、相手を尊重し、公正なコミュニケーションを図ることが重要じゃ。
つまり、戦国時代のような厳しい指導や言動は、現代の社会では許容されないものとなっておる。パワーハラスメントに対しては法的な規制も存在し、適切な処置が取られるべきじゃ。現代の社会においては、公正で尊重に満ちた指導やコミュニケーションが求められるのじゃ。』
『武将さん、ありがとうね!
最後に、いつの時代のどの武将だったか教えて』
解答
『おおっ、お礼を言っていただき光栄じゃ!では、私が演じているのは戦国時代の武将、豊臣秀吉(とよとみひでよし)じゃ。秀吉は戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で、後に日本を統一し、天下人となった人物じゃ。
秀吉はその厳格な指導力や軍事戦略の才能、そして優れた政治手腕で知られており、戦国時代の中でも際立った存在じゃった。彼の人生は数々の逸話や功績で彩られており、日本の歴史において重要な役割を果たした武将として称えられておるのじゃ。』
豊臣秀吉をやってくれてました😆
感情的に叱られてるのか、至極真っ当な理由で注意を受けているのか、受け手側も客観的な理解が必要ですね🤔
最後まで、お付き合い頂きありがとうございました😊
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