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物語が要らないときだってある

小説はお好きでしょうか。物語を読むのは楽しいでしょうか。
今日は、そんなお話です。(どんなお話?)



本日のご挨拶

こんにちは、雪猫なえです。
いやぁ、最近寒くなりましたねぇ。でも日中は暑い時間外もあるので上着での調整しています。

最近は良い買い物続きだったのですが、今日ガチャガチャで散財しました(笑)一番欲しかった本命を狙っていたというより、「これとこれ以外だったらいいな」という消極的発想で引いていました。
最初に「あ、これかぁ……まぁまぁ」という一品が出て、その後結局もう2回引いたのですが、違うガチャ(商品)ではあるけどA子ちゃんのやつが出て、もう一回引いたらそんな「もう十分だよ」なA子ちゃんが被りました(泣)悲しい……。
多分また日を改めてリベンジするんだと思います(笑)

何回見つめ直しても再び練り直すのが人生図なんでしょうか。一本道を決めてそこめがけて突っ走って行けたならどれだけ楽かとも思いますが、そんな人はいないのかもしれません。もしくは、そんなのつまらない可能性だってありますよね。うーん、難しいものですね。



物語が持つ力

物語に触れる意義とはなんでしょう。
正直そんな小難しことを考えなくても全然いいと思っていますし、そもそも「書き手が書きたいから書いている作品」に対して「読む意義」なんて存在するのかと、いち書き手としては思います。

まぁ結局のところ各人思い思いに物語を楽しめばいいと思っているのですが、雪猫はしばしば小説が読みたくないときがあります。



物語は体力を使う

物語は書き手のフィールドです。小説を読むということは他者の領域に踏み込んでいくということだと思っています。
だから書き手は自分の世界観を正確に伝えようと奔走しますし、読み手は忠実に受け取れるように思考を膨らませます。

そしてそれはただぼーっと車窓を眺める作業とは違います。

少なくとも雪猫は、初めての小説を読むときは「よいしょっ」という気持ちで読み始めます。「その世界」に入る心積もりが必要です。
ぼーっと読むこともできないわけではないのですが、せっかく読むなら物語を堪能したいという欲があります。中盤まで進むと「ぼー」っとできないというのも事実です。ヒートアップしていくんですよね。

「世界」に没入していく過程でも、没入している状態でも、感情の揺れや記憶の想起、自己への重ね合わせに知人への重ね合わせと体力を使います。
少なくとも雪猫は感情移入抜きに物語に触れていた試しは少ないと思います。移入できない物語は面白さに欠けると感じてしまうことも確かです。
なので、面白い物語に触れていると、必然的に体力を削ります。そしてこの世界は面白い物語だらけです。自分が選んで店頭購入した物語で面白くなかったものは少ないです。



物語は時間を使う

物語は時間をも喰らいます。
これに関しては有意義な時間の使い方であること間違いないので、ゲームを長時間やってしまった後に時折現れる「後悔」という感情は湧きにくいのですが、やはり一気読みが叶わないもどかしさはあります。

皆さんはどのように物語を読むでしょうか。
雪猫は結構一息に読んでしまうタイプなのですが、それ故に分厚い小説はなかなか手を出せません。時間を大量に消費することがわかるからです。

電車での移動中や仕事の合間の空き時間などでも読書しますが、空き時間を活用しているとどうしても細切れに読んでいくことになる上に読書中断の先に待っているものは「業務」なので腰が重くなるんですよね……。憂鬱さと物語の先が知りたいもどかしさに追い立てられながら電車を降りるあの瞬間はなんとも歯がゆいです(苦笑)



物語はエゴの集大成

先程も書きましたが、物語というのは書き手の世界です。そこはきっと、エゴの集大成なんだと思っています。少なくとも、雪猫の小説はそうだと感じていますし、こうして書いているnoteの記事もエゴの寄せ集めです。

自分の経験、体験、感情、価値観、世界の見方、対人方法、解決方法、好きなもの、嫌いなもの、尊敬する人、美しいと思うもの、などなどそれら全てが暗にも明にも凝縮されています。それが「その人の世界」ですから。全部が全部「世界」の構成要素ですから。

そんな「エゴの塊」に、触れられない・触れたくないときがあります。これが今日の本題ですね。



物語がいらないとき

完結に言うと、物語が要らないときというのは自分が不調のときかもしれません。「不調」というのは体調不良ではなく精神的不調のことです。
体調が悪くても安静にするがてら本を読みますが、心が疲れている状態で他人のエゴに触れて心を動かせるほど雪猫はタフではありません。ガタガタの状態で揺らしたりなんかしたら崩壊しますよね。そういうことです。

自分の人生に嫌気が差しているときに前を向かせようとしてくる物語なんて読めないですし、「他人(=登場人物たち)」のきらめく青春物語なんて見てられません。
何もかも上手くいかないときにバッサリ「嫌な奴」を切りにいく爽快感溢れる物語なんて疲れてしまいますし、かといって暗いまま受け止めてくれるような静かな物語を読んだらそのまま落ちてしまいそうな不安があります。

あと、「自分をどうにかしなきゃ」と焦っているときに他人の世界に対して時間を使う余裕がない、という理由もあります。他人の世界にお邪魔することは、他人のために時間を割いていることと同じ感覚で、「なんでそんなことしてやらないといけないんだ」なんて変な反抗心がニョキッと顔を出します(笑)
これは雪猫自身が書き手側だからということもあるかもしれません。書き手にとっては読んでもらえることはこの上なく嬉しいことで、それに自分が貢献する=読む行為というのは一種の人助けなんですよね。要するに、醜い嫉妬心もあるんでしょう。

もちろん完全にそんな意識で小説を読んでいるわけではないですよ。自分が楽しむためのツールが小説であることは間違いないのですが、創作者として上記のようなくらい感情が渦巻くことも嘘ではないんです。雪猫は、こういう昏さが多分他の人よりも表象しやすい人間です。そんな風に自覚しています。自己コントロールが下手くそなんでしょうか?毎日感情との格闘です(苦笑)

そう、結局のところ、揺さぶられるだけの体力がないときは、どんな物語であっても触れたくないんです。そんなときは本屋さんで小説コーナーを素通りしてビジネス書やエッセイたちに助けを求めに行きます(笑)

↓↓↓本のジャンルによって抱く感情に違うっていう記事(執筆予定)↓↓↓



終わります

いつもと違って淡々と書き出せた気がするので満足です。言語化の作業はやはり好きだなと思いました。

今日の記事は、負の感情については共感されないだろうなと思いますが、物語にはある程度の体力がいるという部分についてはわかってもらえそうな気がしています。もちろん誰かにわかってもらう必要なんてないのですが、やっぱり理解され、共感されることは嬉しいので。

「嫌だなぁ」といった口調で書いてきましたが、物語に対して体力も時間も割くことは誠実に向き合っている証拠で、体力を使っていることはその物語に真っ向からぶつかっている証明だと思います。(その必要性はさておき)

シンプルに、小説は楽しいけど疲れる、疲れるけど楽しい、そういうことなんだと思います。そういうものって多分いっぱいありますよね。動くだけで体力(エネルギー)って消費しているわけですから。
何事も、用量・用法を適切にしていれば良いお薬です。

お付き合い頂き感謝します。


それでは今日はこの辺で。また。

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