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東大寺と奈良の大仏④ 聖武天皇も認めたカリスマ:行基と国家の関係

奈良時代の僧は、国家公務員扱いでした。
その理由についてお話しをしました。
詳しくはこちらをご覧ください↓↓

今回は国から認めてもらっていないけれど、
民間に布教活動を続けてきた行基にスポットライトを当てていきます。

行基は、奈良時代の僧侶であり、民衆に仏教を布教し、社会事業にも力を入れた人物です。

行基
(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年(668年)
- 天平21年2月2日(749年2月23日)は、飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した日本の仏教僧。朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基集団を形成し、畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説いた。併せて困窮者の救済や社会事業を指導した。布施屋9所、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を各地に整備した。

当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。

出典:Wikipedia

行基の社会事業としては、以下のようなものが挙げられます。

  • 橋や道路、新田の開墾などの土木工事の推進

  • 貧困や病気の救済

  • 教育の普及

行基の業績は、以下のとおりです。

  • 民衆に直接仏教を布教し、仏教の普及に貢献

  • 社会事業に力を入れ、民衆の救済に努めた

  • 奈良時代の仏教の発展に大きな影響を与えた

行基は、民衆に寄り添った布教活動と、民衆の救済のための社会事業によって、奈良時代の仏教の発展に大きな影響を与えた人物です。

行基がなぜ、国家から非難されたかというと、国家公務員たる僧でなく、私度僧であったためです。
要は、国家公務員たる僧からしてみたら邪魔な存在だったのでしょう。
国から許可をもらわずに、勝手に布教活動している悪いやつとして弾圧されていました。
それでも行基は布教活動を続けます。
さらに寺や道場の建設、土木工事などの社会事業も続けていきました。

そんな中、737年、天然痘が全国に広がり猛威をふるいました。
天然痘は感染しやすく死亡率の高い伝染病でした。
平城京でも藤原4兄弟がこのとき、そろって病死しました。
740年には、朝廷内の権力をめぐって有力貴族の藤原広嗣が九州で反乱を起こしました。
他にも、地震、干ばつによる大凶作、そして疫病の流行、飢えと病死者の増大は農村をながく荒廃させました。

手の打ちようのない天変地異と権力争いに心を痛めた聖武天皇と光明皇后は仏教という、当時最先端の科学技術を取り入れてなんとか国をおさめようとしたのです。

聖武天皇は、741年に、全国に国分寺を建立することを決定しました。
国分寺は、地方の中心地に建立される寺院であり、
民衆の仏教信仰の拠点となることを目的としていました。
743年には大仏建立の詔を出しました。

しかし、国分寺や大仏建立には、膨大な費用と労働力が必要でした。
そこで、聖武天皇は、民衆の信望が厚く、民衆の力を集めることができる行基に目をつけました。

行基は、民衆に直接仏教を布教し、社会事業にも力を入れてきた人物です。そのため、聖武天皇は、行基の力を借りることで、国分寺及び大仏建立を成功させ、民衆の仏教信仰を深めることができると考えました。

行基は、聖武天皇の期待に応え、国分寺・大仏の建立に大きく貢献しました。
また、行基の布教活動と社会事業は、民衆の心を捉え、仏教の普及に大きな影響を与えました。

747年に、聖武天皇から「法務大僧正」の官位を授けられました。
法務大僧正は、当時の最高位の僧侶の官位であり、
行基は、民衆から高い支持を集めていたことから、
この官位を授けられたと考えられてます。

749年 行基は亡くなります

752年に、大仏の開眼供養の際には、天皇や貴族とともに、
大仏殿の前に参列することはできませんでした

このように、行基は、官位を授けられ、国家から認められる存在となりました。
なお、行基は、官位を授けられても、民衆に直接仏教を布教する活動を続けました。
行基は、官位よりも、民衆の救済を優先したと考えられます。

以上、奈良時代に活躍し、大仏づくりに貢献した行基の紹介でした。

次回は大仏づくりについて考えていきたいと思います。


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