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Rat Raceに関するあれこれ


ボブ銃撃される

Rat Raceを収録したアルバムRastaman Vibrationがリリースされた1976年4月から8ヵ月後、同年12月に何者かがリハーサルのためボブの家に集まっていたウエイラーズを襲うという銃撃事件が起きています。

(イメージ画像)

被弾したボブは左腕に銃弾が入ったままの状態でラスタたちに平和を呼びかけるコンサートに出演、演奏直後ジャマイカから出国してバハマ経由でアメリカに渡って治療を受けています。

アメリカからジャマイカには戻らず、ロンドンに移動してそこで1年と4カ月続いた「亡命生活」に入りました。

ボブの人生と音楽キャリアにおける大きなターニングポイントです。

今回はこの事件についてあれこれ書いていこうと思います。

背景

ジャマイカでは1977年の早い時期に総選挙が予定されていて、1976年当時マイケル・マンリー(Michael Manley)首相の左派政党であるPeople’s National Party(PNP)と親米野党であるJamaica Labour Party(JLP)の支持者の間で、政治的対立が激化していました。

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1972年に社会主義を掲げて政権を奪取したPNPは教育の無償化や土地改革など、さまざまな施策を打ち出し、すぐ隣の社会主義国キューバと友好関係を築くためのプログラムを開始しました。

ジャマイカが社会主義国になるのではという疑念を持ったアメリカはマンリー政権に外交的圧力をかけ始め、野党JLPはマンリーが国家を不安定化させていると非難。そんな状況下で、共産ゲリラが山中で訓練しているとか、社会不安を煽るためにCIAが工作活動をしているとか、いろんな噂が飛び交い始めました。

1940年代からライバル関係にあったPNPとJLPは、それぞれギャング組織と手を組んでゲットー地区で票を確保しようとしていました。銃による脅迫、嫌がらせ、傷害、殺人事件は1976年6月マンリー政権が非常事態宣言を発令した頃ピークに達していました。

流血の構図や当時の社会情勢については「Johnny Wasに関するあれこれ1」で詳しく解説しました。そちらもご参照ください。

 コンサートの目的

緊迫した社会情勢を憂いていたボブは、ラスタファリを信じる仲間に平和のため団結するよう訴えたいと考え、スマイル・ジャマイカ(Smile Jamaica)という無料野外コンサートを企画しました。

ボブがこのコンサートをやることを発表した直後に首相マンリーが総選挙を呼びかけたため、野党JNP支持者はSmile Jamaicaを与党PNPを支援するためのイベントだと解釈しました。

意図に反して政治的な色がついてしまったわけですが、ボブは予定通りコンサートをやることにしました。危険を覚悟した上での決断だったんだと思います。

銃撃事件

(今はBob Marley Museumになっているボブの自宅兼スタジオ)

1976年 12月3日の夜9時頃 、2台の車がアップタウンにあったボブの自宅兼スタジオの門を通りぬけ、数人の武装した男たちがリハーサル中のウエイラーズのメンバーを襲い、銃弾を浴びせました。

銃弾はボブの心臓の下あたりの胸骨をかすめて、左腕に入りました。別の銃弾が妻リタの頭をかすめましたが、大怪我には至りませんでした。

一方、ウエイラーズのマネージャーだったドン・テイラー(Don Taylor)は下半身に5発も銃弾を浴びました。でも重傷を負ったテイラーも命には別状ありませんでした。

47年経った今も銃撃の動機や犯人は不明なままです。

ただ襲撃犯たちにはボブを「殺すつもり」はなかったようです。

ボブが撃たれた現場にいたギタリストのドナルド・キンゼイ(Donald Kinsey)は襲撃事件をふり返って、音楽ジャーナリストのスティーヴン・デービス(Stephen Davis)にこう語ってます。

「犯人は自動小銃を手に部屋に入ってきてボブを見た。明らかに殺すことができたんだ」

「でもボブに照準を合わせないでぼんやりした方向に撃ったんだ・・・もし殺すつもりだったら、間違いなくボブを殺せたよ」

スマイル・ジャマイカ

National Heroes Park

襲撃事件からわずか2日後、1976年12月5日、キングストンのナショナル・ヒーローズ・パーク(National Heroes Park)に8万人もの観客を集めてスマイル・ジャマイカ・コンサート(Smile Jamaica Concert)が予定通り開催されました。

コンサートに先立ってウエイラーズは1曲だけ(War)演奏すると発表されていました。

ボブ@スマイル・ジャマイカ・コンサート

ところがボブは左腕に銃弾が入ったままステージに登場、約90分のライヴを敢行して15曲を歌い切りました。リタやキンゼイもひるむことなく同じステージに立っています。

画像がものすごく暗くて粗いですが、この歴史的コンサートの映像もYouTubeで見ることができます。

 セットリストは次の通りです。

War/No More Trouble/Get Up, Stand Up
Crazy Baldhead/Positive Vibration
Smile Jamaica
Rat Race
Trenchtown Rock
Keep on Moving
Want More
Them Belly Full
Jah Live
Rastaman Chant
Rebel Music
So Jah Seh

コンサートのタイトルになったSmile Jamaicaを含め、4曲がこのプロジェクトのカバー範囲外です。なので参考までに動画を貼っておきます。

 

 

 

その後

このコンサートの直後、ボブは出国してバハマのナッソー(Nassau)に向かい、そこからアメリカに移動して傷の治療を受けました。

その後ロンドンに移動して、1978年4月にOne Love Peace Concert出演のため帰国するまで16ヶ月をイギリスで過ごしました。

銃撃を受けたこと、死なずに済んだこと、ジャマイカを離れてヨーロッパで過ごしたこと、この三つすべてがその後のボブの歌詞とウエイラーズのサウンドに大きな影響を与えました。

ここからボブの人生と音楽活動は次の章に入っていきます。

以上、今回はボブ銃撃事件と引き金となったスマイル・ジャマイカ・コンサートに関してまとめてみました。それじゃまた~

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