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Crazy Baldheadに関するあれこれ


狂ったハゲ頭とは?

Crazy Baldhead(狂ったハゲ頭)ってなんやねん?

それがこの曲の一番大事なポイントです。

「ラスタ以外の人間」を意味するこのフレーズ、IyaricとかDread TalkとかRasta Talkと呼ばれるラスタ独特のボキャブラリーです。

Iyaricの知識はルーツレゲエを聴く上ですごく役に立ちます。なので最初はこの機会にラスタ用語を紹介しようと考えていました。

体制側との対立

ですが、あれこれネット検索しているうちにこの曲に関連して書いておくべきもっと大事なことがあることに気がつきました。

それはラスタと体制側との長い対立と闘いの歴史です。

今回は1970年代に入ってボブたちが音楽の力で社会通念を塗り替え始めるまで、ジャマイカでラスタがどれほど不当な扱いを受け、差別されてきたかというところに光を当てたいと思います。

ラスタ=少数派

誤解している人も多いようなので、まず最初にジャマイカにおけるラスタのポジションについて少し。

現在ジャマイカ国民の90%強がアフリカ系です。

宗教別に見ると、キリスト教徒(プロテスタント)が国民の60%強を占めています。ラスタと自認する人はジャマイカ国民の5%から10%に過ぎません。

ラスタじゃない多数派ジャマイカンの一家
こちらは完全に少数派

ジャマイカンと言えばドレッドロック(dreadlocks)というイメージが強いですが、ラスタは完全な少数派です。ここは見逃してはいけない大事なポイントです。

ラスタ基礎知識

補足情報としてラスタファリ(Rastafari)についてもざっくりとまとめておきます。

ラスタファリは特定の教祖も成文化された独自の教義も持たない宗教です。

黒人民族主義者(black nationalist)マーカス・ガーヴェイ(Marcus Garvey)が1927年に発表した「アフリカを見よ、黒人の王が戴冠する時、解放の日は近い」という声明通りに1930年にエチオピアで皇太子ラス・タファリ(Ras Tafari )が皇帝ハイレ・セラシエ一世として戴冠したのを旧約聖書に記された「預言の成就」だと解釈したレナード・ハウエル(Leonard Howell)を中心としたガーヴェイ主義者たちがジャマイカで興した宗教運動です。

Marcus Garvey


Leonard Howell

キリスト教同様、旧約聖書と新約聖書を聖典としています。信者はほぼ全員元キリスト教徒(大部分はプロテスタント)です。

弾圧の歴史

ラスタ(=ラスタファリ信者)に対する弾圧は1930年代初めに遡ります。

北アイルランドの軍隊に準じる治安部隊をお手本にして誕生したジャマイカの警察は当初白人が上層部を占めていました。

彼らは農園主(こちらも白人です)の要請に応え、1933年にラスタ指導者ハウエルが主催し、黒人200人強が参加した最初のラスタ集会(Grounation)を厳重に監視し、詳細な報告を取りまとめ、翌1934年にはハウエルを扇動罪で逮捕しています。

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白人、教会、植民地政府を非難し、自分たちはエチオピア人だ宣言し、イギリス王政を拒否し、新しい王(ハイレ・セラシエ)を受け入れようと主張したハウエルを警察は反社会分子と断定しました。

これが対立の原点です。

1930年以降、警察に扇動された暴徒が繰り返しラスタ組織本部を襲撃し、施設や備品を破壊し、大きなダメージを与えています。

警察本体も繰り返しラスタの家宅捜索をおこない、マリファナ不法所持容疑で定期的にラスタを逮捕しています。

Coral GardensとBack-O-Wall

中でも特にひどかったのは、1958年にモンテゴ・ベイ郊外の新興住宅地コーラル・ガーデンズ(Coral Gardens)でおこなわれた大規模なGrounationの直後に起きた一連の弾圧事件です。

マリファナ不法所持の疑いで警察は集会参加者を逮捕し、殴打し、ドレッドロックを切って丸刈りにし、集会所を焼き払い、リーダーを投獄し、警官に立ち向かっていったラスタを射殺しています。

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翌1959年には、かつてキングストンに存在した悪名高いスラム地区バック・オー・ウォール(Back-O-Wall)で警察とラスタが衝突し、暴力事件に発展しました。この事件では50人以上のラスタが逮捕され、殴打され、強制的にドレッドを切り落とされ、家を破壊されたと伝えられています。

Back-O-Wall

ちなみにキングストン最大のラスタ居住区だったバック・オー・ウォールは事件の数年後、ブルドーザーで更地にされ、Tivoli Gardensという名の再開発地区になりました。

Tivoli Gardens

この時、多くのラスタが家を失い、近隣地区トレンチタウンの低所得者向け公営共同住宅(government yards)に移り住んでいます。

政府転覆計画

1959年にはもう一つ大きな事件が起きています。

ジャマイカ西部の街サンディ・ベイ(Sandy Bay)でラスタ指導者クラウディアス・ヘンリー(Claudius Henry)の家宅捜索をおこなった警察はフィデル・カストロ(Fidel Castro)に宛てたジャマイカ乗っ取りに関するヘンリー自筆の手紙を発見しました。

Claudius Henry

当時、カストロはキューバでバティスタ政権の打倒に成功したばかりでした。

翌1960年には、ヘンリーの息子レイノルド・ヘンリー(Reynold Henry)が黒人民族主義者グループを率いて蜂起しています。

植民地政府の転覆を企てていたと言われる彼らは警察と兵士を巻き込んだ大捜査の末に逮捕され、反逆罪で有罪判決を受け、絞首刑に処されました。

1963年にはコーラル・ガーデンズで再び警察とラスタが激しく衝突しました。

ラスタのグループがガソリンスタンドに放火し、8人の死者が出た事件です。

警察は島中で家宅捜索を行い、160人以上のラスタを逮捕し、指名手配した3人を射殺し、殺さずに捕らえた2人を絞首刑にしました。

反社会的イメージ

こういった弾圧事件を通じて、ラスタはマリファナを常用する反社会分子で、社会主義や革命に共鳴する危険思想と暴力的傾向を持つ犯罪予備軍だというネガティヴなイメージが定着しました。

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そして体制の側に立つ多数派ジャマイカ国民から差別され、不当に扱われ、恐れられ、嘲笑され、石を投げられてきたわけです。

Crazy Baldheadという耳に刺さる言葉の裏にはこうした知られざる歴史があります。

最後にこの文章を書く上で大いに参考にさせていただいたジャマイカの新聞記事を紹介しておきます。

それ今回はこのへんで~

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