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【エッセイ】 生きてるだけで奇跡。


たまに「奇跡」を感じる時がある。
この前は、桜の花びらが手の中に落ちてきて、「奇跡だ!」と思った。

でも、「奇跡」という言葉には、キラキラした印象があるせいなのか、日常的に使用するには、少しハードルが高いのかもしれない。

ヘタしたら、「桜の花びらが手の中に落ちてきただけで、奇跡だあ? とんだご機嫌野郎だな!」と怒られてしまう可能性だってある。そのくらい、「奇跡」という言葉には、ある種の壁を感じてしまう。

色々な奇跡を考えてみたい。

食事制限やリハビリを重ねた結果、病が治癒。いったい、どれくらいの月日が流れたのだろうか。看護師さんは何人も入れ替わり、病室には自分だけが残されることもあった。窓の外の景色が絵画のように思われて、自分には現実的に感じられないことも何度もあった。そんな日々が、ついに終わる。幾度の検査をくぐり抜け、この日、白髪混じりの主治医が口角を柔らかく上げて「奇跡が起こりましたね」と言う。思わず涙が溢れるかもしれない。

この時の奇跡は、いかにも「奇跡」という感じがする。


自動販売機で飲み物を買うと、お釣りが全て小銭で返ってきたから、近くにあった宝くじでスクラッチを購入。男は、小さなガラスの向こうにいるメガネのおばちゃんに三百円を渡した。これで財布が少しは軽くなる。小さなドキドキ感も味わえる。一石二鳥の気分で、コインでシールを削っていく。一つ、二つと同じ柄が続いたが、三つ目はハズレた。まあ、そうだよねと口の中で呟きながら、全てのシールを削っていく。するとどうだろうか。ビンゴのように最下部の横ラインに同じ柄が揃っていた。そんなまさか。スクラッチの右端を確認すると、小さく「一等、三百万円」と書いてある。・・・一等が当たったのだ。しばらく状況が飲み込めなかったが、その時、男は「奇跡だっ!」と叫んだ。

この場合、「奇跡」というよりも、「運がいい」という言葉の方が、なんとなくしっくりくるのはウチだけだろうか。


満員電車の中、駅を降りようとした時に耳に激痛が走った。耳を触ると、そこにあるはずのピアスがない。人混みでピアスが引っかかったのだろう。慌てて落としたピアスを探そうとするが、押し寄せる人の波にのまれ、引き返すことができなかった。クリスマスに祖母からもらった大切なピアスだ。なんとしても見つけ出したい。しかし、人混みが落ち着き戻ろうとしたところで電車は無情にも発車してしまった。でも、ここで諦めるわけにはいかない。自分の乗っていた号車、扉を思い出しながら、すぐさま駅の紛失物センターに連絡を入れる。小さなものだし、見つかる可能性はうすいと思っていた。でも、可能性はゼロじゃない。電話越しに、ピアスの特徴を必死で伝えた。もう、耳の痛みなど感じなかった。すると、その日の夕方に連絡があり、特徴が合致するピアスが届いたとのこと! 奇跡だ! 急いで仕事を切り上げて、受け取りに行くと、そこには無傷のピアスが小さく輝いていた。女はため息を吐くように、もう一度「奇跡だ」と呟いた。

これは、確かに、「奇跡」っぽい。

「奇跡」という言葉には、ある程度の努力や希望を背負っているのかもしれない。単なる偶然だけでは「奇跡」は似合わない。そう考えると、ウチの手の中に入ってきた花びらは奇跡じゃないのかなあ・・・。

でもでも、その桜の花びらは一年以上をかけて咲き、いよいよ盛りを迎えたと思ったら、儚く散ってしまったのだ。その一枚の花びらと、ウチが出会う確率を計算したら、きっと宇宙レベルでの確率だと思うんだ!

ウチが、その公園にやってきたのも偶然で、花びらが散ったのも偶然で、出会ったのも偶然。そもそも、ウチがこの世に生まれてきたこと、日本人として育ったことだって偶然で、あらゆる偶然を掛け合わせたら、やっぱりそれって「奇跡」と呼べるのではないだろうか。

そう考えると、宝くじに当たるのも「運がいい」だけでは片づけられない。立派な奇跡になるし、今日、天気が晴れたのも奇跡なんだと思う。こうして健康に過ごせること、文章を書いていること、全てが奇跡のような気持ちになる。

生きているだけで奇跡。

そこまで大きな話ではないかもしれないけど、たまにウチは本気で「奇跡」だと思うことがある。この文章を読んでいるのも奇跡。書いているのも奇跡。

たまに、そう考えてあげると、すごく人生が大きく感じる。

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