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【エッセイ】 落とし物①


「警視庁」その文字を見たとき、あたしは無意識に毛を逆立てていたと思う。ポストに投函された茶封筒。そこには右肩上がりの筆圧の強い文字で、あたしの名前が書かれていた。

かくばったインクたちの裏側に、書いた人物を想像してしまう。止め、跳ねの部分のインクが異様に濃い。強い意思を感じる。自我が強そうだ。上昇志向が強くて、曲がったことが大嫌いで、規律性を重視する人。しなやかの「し」の字もない、あたしの苦手なタイプ。

思わず頬がひきつっていたのは、「警視庁」と書かれた無機質なハンコのせいだけではなさそうだった。

「・・・あたし、なにかしたっけ?」

こう思ってしまうのは、あたしだけかしら。身に覚えがないにも関わらず、まるで加害者のような気分になってしまう。小さなため息を、ぽっと吐き出してから、ポケットの鍵を取り出した。

「家宅捜索、逮捕令状、えっと、えっと・・・」

自分の持てる限りの恐ろしい言葉が頭をよぎる。死ぬまで無関係だと思っていた場所からの思わぬ届け物。ぐるぐると頭は回転しているのに、体が思うように動かなかった。玄関で靴を脱ぐのが煩わしい。足がもたつく。脱いだブーツは無秩序に倒れ、室内用スリッパは蹴飛ばされた。あたしの尿意は限界に達しようとしていた。

便器に座りながら、びりびりと茶封筒を破くあたしは、完全に罪を犯した人のソレだった。足元に紙切れが散っていく。親指の横にできた外反母趾。なにもかもが、ソレに見える。ざあざあと滝のような轟音が聞こえてくる。密室空間に響く水の音は、あたしの心の揺れを表してくれているようだった。

ちゃぷんと最後の一滴が水面に達したとき、あたしは全身から力が抜けていくのを感じた。体毛が、しゅんと体におさまり、皮膚の温度が下がっていく。

「いしつぶつ、センター?」

人間が心にゆとりが持てなくなった時の視野の狭さには、驚かされるものがある。茶封筒の中に収められた用紙には、「落とし物が届けられました」と書いてあった。改めて茶封筒を確認すると、そこには確かに「警視庁遺失物センター」の文字が。

「なんだ・・・、よかった」

よかったとは、なんだ。そもそも、あたしに後ろめたいことはない。それなのに飛び出してきた言葉が自分の意思とは反対であったことにおかしくなる。

安心した途端に、書類の文字がカメラで撮ったかのようにくっきりと眼に入ってきた。よくよく読んでみると、数日前にあたしは“ワクチン証明書”を落としていたことが判明した。ウィルス予防ワクチンを打ったことの証明書だ。

「めんどくさ・・・」

今度は心の声がはっきりと声に出た。まず落とし物を拾ってくれた人に感謝するべきだし、それをわざわざ通知してくれた警視庁に感謝した方がいい。それなのにあたしは反射的に面倒だと思ってしまったのだ。

あたしはガバっと冷蔵庫を開けた。いったん、休憩がしたい。帰宅直後だったのだ。きっと疲れが自分の心を乱している。視野も狭くなれば、心の幅も狭くなっている。そうに違いない。面倒だなんて思っちゃダメよ。本来のあたしは、もっと心優しいはず。悪魔にそそのかされてるの。自分という悪魔に・・・!

外国の物語に出てくるキャラクターのような気分で、あたしは差し入れにもらったチョコレートを3粒口に放り込んだ。ちゃぷちゃぷと口の中でチョコを溶かす。じゅわりと唾液が溢れ出して、チョコの香りが鼻腔を抜けていく。うっとりして、まぶたが重くなっていった。

「うーん!」

立ったまま唸るあたし。ほかほかと胸に元気が湧いてきた。仕事から帰ってきたといっても、時刻はまだお昼過ぎ。

「よし、いくかっ!」

あたしは、ぴしゃんと頬を叩き、飯田橋にある遺失物センターへと向かった。

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