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自分を見ているのは、いつも他人だった。


ファッションは他人が見るものだ。


だから、自分のファッションセンスを信じない方がいい。鏡を見て、自分を確認する時間は、1日のうちでほんのわずか。どれだけ自分ではお気に入りの服を着ていたとしても、そのほとんどの時間は他人が見ている。いや、見せられているのだ。


独特のファッションセンスを見せられる相手の気持ちを想像してみてほしい。とりあえず「オシャレだね」と言うしかないが、心の中では「こんな奴に隣を歩いて欲しくない」と思われていることがほとんどだ。


だからこそ、ファッションは他者視点で選ぶとよい!


・・・みたいなことがファッション系の本を読むと書いてある。その通りだと思った。だから、ウチは自分のファッションセンスを信じていない。お店に立つマネキンの服を一式買うことすらあるほどだ。だって、ウィンドウに並ぶくらいなのだからオシャレであることには間違いないし、他人に不快な思いをさせないからこそマネキンなんだと思ってる。


そう。やはり、「自分が思う自分」と、「他者が思う自分」には大きな大きな差があるのだ。


自分では「私なんてダメだ」と思うことがあったとしても、他人からしたら「あなたは頑張り屋さんで、とても素敵よ!」となることもしばしば。自己評価と他者からの視点には乖離があり、それはファッションと全く同じなんだと思う。


先日、友達と食事をしている時、お酒の力もあって、普段は絶対に言わない悩みや自分の抱えているモヤモヤを吐き出してしまった。といっても、「アイツが嫌いだ!」というような種類の悩みではなく、「うーん・・・、なんていうかなぁ。緊張感がないというか。張りがないというか。うーん・・・」というウジウジした悩みだ。


自分で言語化できていないからこそ、どうしていいか分からず、一人グルグルと考えていた。でも、話してみると、友達は少し微笑みながら、


「物足りないってことね」


と言い放った。その言葉が、ウチの胸にグサリと刺さる。あまりにもピタリと突き刺さったせいか、血も出ない。完全に自分のモヤモヤを言い当てられたような、そんな清々しさを覚えた。


「・・・そっか。ウチは、物足りなかったんだ」


どうしてこんな簡単なことに気付けなかったのだろう。そして、その言葉を見つけただけなのに、ウチの心のオモリが軽くなっていることに驚いた。全身を流れる血液が駆け出し、体内に言葉が浸透していくのが分かった。


「そう。次のステージに入ったってことよ。私ら10年以上の付き合いになるけど、きっと10年前は《物足りなさ》なんて感じなかったはずじゃない?」


「うん、たしかに」


「知らずのうちに成長しちゃってる部分はあって、もうあの頃には戻れないのよ。自転車に乗れなかった頃には戻れないのと同じでね」


自分のことは自分が一番理解していると思ってしまう時がある。それで親とも先生とも喧嘩したことがあったっけ。でも、外見的なことだけでなく、自分を客観的に捉えているのは、いつも他者だ。文章を書いてみたりして、自分を客観的に捉えようと努力はするけど、本当の意味で自分を客観視することはできない。


だから、たまには吐き出してみるといい。


客観的に見た、新たな自分と出会えるかもしれないよ!


友達と過ごした夜は、とてもとても大切な時間となった。


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