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無題

一人暮らしをして2年が経った。自分で言う事ではないが箱入り娘だった。休日に友達と遊びに行った記憶はないしお祭りの花火を友達と見たことはない。門限や外泊禁止、様々な縛りと共に過保護な両親親戚がくれる環境に甘えに生きてきた。高校を卒業するまで自分の部屋は無く寝室は共同だった。1人の時間などお風呂とトイレだけだった。

家族仲がいいとよく言われる私の家だがうまくいかない日々も多くあった。寝ている私を横目にカーテンを全開にし電気をつけられた朝、私の朝ごはんだけ用意されていなかった日、置き手紙を置かれて家に置いて行かれた日、家から出ていけお前など知らんと言われた日。正式に仲直りをしたあの時からきっと彼らはもうそんな事を忘れているが私の学生時代の記憶で強く残っているのはそんな思い出ばかり。旅行にも連れていってもらい美味しいレストランにも連れて行かれたがいつまで経っても私の頭の中からは離れない。大好きである事に代わりはないがいつかまたああなってしまうのではという恐怖がつきまとう。仲直りした後は支えてもらい愛情を注いでもらった。大好きで仕方ないから余計に苦しかった。大好きでいたかった私は大学は絶対に県外に出ると決めていた。父母の出した条件をクリアして私は無事大学生になった訳である。

家から出て感じたのは自分が甘やかされて育った事、家族が過保護である事、そして1人の時間が私が私であるためには必要である事だ。ミニスカートを履いてもフリルのついた服を着ても、男の子の様な格好をしても怒られない家、ジロジロ見られない大学、街。門限など無く日が沈んでも外にいる事ができた。知り合いの目に怯える事なく男の子とご飯に行くことが出来た。顔色を伺わずに自宅で過ごす時間は居心地が良かった。それでも実家に帰省すると私の好きなご飯が並ぶ食卓に洗濯してくれる母の存在、いつでも車を出して洋服を買ってくれる父、誰かといるぬくもりは『たまに』ならとても居心地の良いものでただひたすらに甘えて浸かった。いいとこ取りをした。そして私たち家族には少し離れているくらいが丁度いい事がわかった。お互いの行動を逐一把握できない遠距離では両親の過保護が届かない。1人でもイキイキしている私をみて父は好きにさせる事にした諦めたと親戚に愚痴をこぼしていた。

関係が変わっていった2年の月日の間に私にも大きな変化があった。今実家で寝過ごすことができなくなった。声をかけられなければ何時間でも寝れる私が朝に目覚めるようになった。帰省から戻り一人暮らしをしている家に帰り死んだように眠りについた次の日、時刻が13:52となっているのを見て私の本拠地はここだと体が認識したことを感じた。なんだか寂しくて苦しかった。

そして今回の帰省では就職の時に地元には帰らない事を伝えた。ここ数年家族仲が良かった事もあり伝えた後も苦しんだ。(両親はまだ諦めていない様子)   空港を歩く途中母に『次の帰省はいつかわからないのね』と言われた。寂しそうだった。私は寂しくて仕方がなく寂しそうな母の横顔を見ることができなかった。父の会社の人から私の帰省が終わる度に『娘がもう東京に戻ってしまう』と嘆いている事を聞いた。寂しくて父に上手く言葉をかけられなかった。早朝から出勤した父が空港に行く途中の私に、忘れ物をしたから届けてくれと言われ、すぐに必要の無いものを届けに行った。車が見えなくなるまで表に立っていた父の姿がやけに離れない。

そして帰省から戻り家に帰ると合鍵を持っている彼が片付けたであろう玄関に置かれたサプライズの置き手紙があった。愛しい見覚えのある文字に私が彼を呼ぶ呼び名で書かれた〜よりという所、彼らしい素直な気持ちと共に可愛いイラストが書かれた手紙。心がほくほくしながらリビングに入ると、整理整頓されたお部屋があった。彼がサプライズでお部屋まで片付けてくれていたらしい。何故だかわからないが涙が止まらなかった。手紙を持ちながらうずくまった。家族とうまく距離を取ることができない私に常に付き纏う寂しさの様な物を彼は少しずつ溶かしてくれる。風邪をひいた時、病院に行く時、彼はいつも駆け付けてくれる。彼に手を握られている時は保健室や預けられた祖母の家で、お迎えが来なくて寂しい気持ちを抱いた幼い日の私の姿を思い出す。迷惑をかけたくなくて泣く事が出来なかったあの日の私を遠目から見ている気分になる。きっとこんな風に無条件に、物理的な話だけではなく手を繋いで欲しかったんだろうな私は、きっと。

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