見出し画像

芸術におけるオマージュと科学的史観の関連

曲を作るということ~アルバム制作日記~

この前知り合いの映画監督の村本大志(57)と下北沢のコーヒー店で話をしていた。
村本さんとは去年、彼の作品である「AMY SAID」のトークイベントがテアトル新宿で行われた際に、そこでゲストスピーカーとして登壇して知り合ったのが始まりだった。

コーヒーのおいしさがあまり分からない私も彼と飲んでいるとなんだかうまいものを飲んでいるような気がする。村本さん年齢の差を越えて多くのものを私に教えてくれる稀有な存在だ。友達だ。そんな中でオマージュの話になった。それがとても有意義な話だったのでみんなにシェアしたい。

私はここ最近オマージュというものの素晴らしさがわかるようになっていた。村本さんにその話をすると「はやいだろ」と笑われた。昔はパクリじゃねーか!と思っていたが今はそうではない。

オマージュの定義は「芸術や文学において、尊敬する作家や作品に影響を受けて、似たような作品を創作する事を指す用語である。しばしば「リスペクト」(尊敬、敬意)と同義に用いられる」

とWikipediaではされているが、その定義はさだかではない。
最近上映されたジョーカーがタクシードライバーのオマージュであったことも読者の方はご存知かもしれない。

私自身「オマージュ」という概念は高校の時からその言葉を使わずとも血肉化していた。
それは私が高校時代クラシック音楽の部活に属しており、その三年間没頭していたからだ。
クラッシックはとにかく課題の曲を徹底的に読み込み、正確に解釈してそこにいかにオリジナリティーを出すかが求められる。これは自分の好きな哲学者の本を徹底的に読み込み研究して、オリジナリティーを出して論文で発表するという作業を続ける哲学研究の営みと似ている。どちらの作業もつねにオリジナルの作品へのリスペクトが求められる。

勉強不足な解釈をすれば、そのオリジナル作品に罪悪感を覚えるし、その尊敬の念が強くなればなるほどそこに自分のオリジナリティーをつけ加えることができなくなっていく。
高校時代クラシックをやっていた自分はオリジナル作品と今の時代を生きる部活動としての若さオリジナリティーの良いバランスを取れていて、それがうまく表現できていたかたらこそ日本一を取れたのだと思っている。

大学に進み、パンク音楽を始めた時、私にオマージュするものはなかった。すべて自由に曲を作っていたからだ。自分でメロディーを決め、自分で歌詞を決める。参照するものなどなくただ好きに曲を作っていた。ただパンクバンドという肩書を使う以上はどうしてもそれが形骸化しないよう思想とこだわりが自分の中に求められた。
パンクはもともとロックの派生である。パンクを語るためにはロックを知る必要がある。ではロックとはそもそも何かという問いが思想面における私の音楽の中心的な課題になった。

結局のところ私はパンク音楽においても、そもそものパンクとは何か、ロックとは何かに立ち返る必要があり、形は違えどクラシックや哲学活動と同じようなことをしているのだった。

さて、本題にはいると。

グーグルスカラーというサイトがある。これは世界中の論文のデーターベースになっている。その検索画面にはいつも「巨人の肩の上に立つ」と書かれている。

それが意味するのは、私たちができる研究は過去の積み上がりをほんの少し前に勧めることだけだ。ということだ。

学問には一応、文学系と科学系がある。簡単に言えば、文系と理系だ。それを分けることが現代の日本の教養の低下につながっていることや、科学信仰の原因になっているなどの批判がある現状は百も承知でこの二分をして話を続ける。
「巨人の肩の上に立つ」というこのグーグルスカラーの言葉を起点に考えていくと、文系は確かにそうだ。過去の文献を研究しないと論文は書けない。古典に戻り、道をたどり、昇り、疑い、ほころびをさがし再編する。研究者は基本的に過去の哲学者のすごさを現代に伝える。

過去>現代という構図が強い。過去への強いリスペクトがあり、確実に「巨人の肩の上に立つ」というテーマに沿っている。しかし、科学も文系と同じかと言われるそうではない。科学は今日を学べば過去が一気にそこで手に入る。今日を学べばOKなのだ。科学は技術なので、その最先端が今日だからだ。過去の技術が今日に勝つことはなく科学では、過去<現代という図式が成り立つ。
この意味で、過去と現代の比較の仕方が真逆なのだ。
そしてもう一つ違う点はそれにともなうリスペクトの意味だ。文学系は過去に人類の英知を見るのに比べて、科学は常に未来に英知をみようとする。よって科学の発展は未来に約束されており、過去へのリスペクトの質は文学系とは全く違う。
以前塩谷賢という哲学者と話をしていた時に、科学哲学に詳しい彼は以上のような理由で「理系は先生より学生の方が賢い」と言っていた。

そして文系と理系の大きな違いがもう一つある。それは「偶然性の度合い」である。文学は基本的に過去との対話の中で行われる。倫理的、道徳的な教義があり、解釈の幅も広くない。ゆえに非常に保守的になっていく。だから、文学がいきなりパラダイムシフトしたりしない。それを業界の伝統、文化、道徳、倫理が許さなからだ。
一方科学は違う。ノーベル生理学賞受賞者のアレキシス・カレルが言うように科学の発展はほんの一握りの天才の好奇心によって偶然進歩しただけで、そこには文系のような保守的な倫理や道徳、伝統は無い。科学はポコンと偶然天才が現れ画期的な発見をしドーンと一気に進むのだ。そして進む方向はみんなが便利になれば何でもよい。進む方向は偶然に任すのだ。このような文系理系には差があり私はこの差をかなり重視している。

そして音楽に話を戻すと、現代の音楽のオマージュはそのような意味で科学的なのだ。
過去の曲のコードをまるパクりし(カノンなど)それをちょこっといじりメロディーと歌詞をつけて今日で売る。もしカノンをオマージュするなら、その時代の文化、時代精神、文脈、宗教、思想、意義などを研究するような文系的態度が必要とされるが、そのような事を踏まえているミュージシャンがどれほどいるだろうか。
この意味において現代音楽のオマージュは非常に科学的なのだ。

次のアルバムには「men in civilization」という曲があるがnumber girlの「Num-Ami-Dabutz」をオマージュしているのだが、文系的な手法でリスペクトをもって分析研究してやりたいと思う。

頑張るぞ!!

ご愛読ありがとうございました😊

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?