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センスのいい文章って、ベースに何が効いてるの?

noteには、ふつうに思ったこと、感じたことを書けばいい。

それは、わかるんだけど、それじゃーよくない気もする・・そんな風に思いません?

ふつうに書いたらいいだけなのに、何か物足りない気がする。
「こんなんで面白いのかな?」「こんなんでいいのかな?」って焦りだす。


突然ですけど、あなたは梅干し差しだされてどんな反応します?


「すっぱそ~」
「香り嗅ぐだけで唾液出るわー」


いや、もうこれで十分なんじゃないかなって思ったんです。
それをね「そんなん誰でも言えるやん」って。
まぁそりゃそーなんですけど。


誰でも言えるようなこと、誰でも感じられるような感覚をすっ飛ばして、この梅干しは何年ものだろうか?とか塩の加減がどうだ、効能は何だとか。

そういう後から頭で考えだしたものって、トッピングみたいなもんで。お好み焼きでいうと、青のりぐらいじゃないかと思うんですよね。

青のりだけ好んで食べる人って、ほぼいないと思いますよ。やっぱり、お好み焼きあってこその青のりじゃない?


何の話だ?・・そうそう、感覚



文章書いたり読んだりに限らず、コミュニケーションでも「ふつう」の感覚の共有があった上でじゃないかなー。

でもでもー、誰でも言えること、感じられることってさ、オリジナリティなさそうよね。「こんなの書いて意味ある?」とか「こんなんでいいのかな」「誰が書いても一緒やん」とか。


そう思うのわかる、わかりみすぎる。


それでも、やっぱり青のり(頭で考えること)はトッピングにすぎないと思うわ。ベースはあくまでお好み焼き=「感覚」。


センスのいい文章って、感覚をベースとしてる文章なんじゃなかろうか。その感覚が、書き手と読み手であまりにも離れてたら、文章読めないです。そこには共有できる感覚が乏しいから。

なにも詩的じゃなくたって、洒落た言葉を使わなくたって。
センスのいい文章は書けるんじゃないかなぁ。


じゃーどうしたらセンスのいい文章が書けるんでしょうね?
お好み焼きは、どうしたら美味しくなりますか?

オリジナリティってどうしたらキラりと光るんでしょうね。
あってもなくてもいい青のりがやっぱり欲しくなるのはどうしてでしょう?



そのあたりは、また。


みなさま、良い週末を!



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