才能があったりなかったりすること

前向きな日記を書きたいと思います。
先に宣言しておく。

才能について考えてた。
わたしこれまで生きてきて、人によってはそれが長いと思ったり短いと思ったり、意見がまちまちなくらいの年齢まで生きてきたけど、まだまだやってみたことないことがたくさんある。
この世にはやらない方がいいこともあるだろうけど(公序良俗に反することとか不健康なこととか)、やりたくないこともあるし、やってみてもいいのにってことは安易にやらない方に入れないようにはしとくとして、それにしても、やってみたいけどやってないことだけでも山ほどある。
だから、その中にわたしが才能を発揮できることがもしかしたらあるのかもって思った。知らないだけで。わたしは不器用だったり器用だったり、なにかと物によってまちまちだったりする。何をやっても不器用みたいなことだったらわかりやすいのかもしれないけど。わたしはまちまち。職人のようにできたり、凡人程度にもできなかったり。頭も良かったり悪かったり。ラテアートとかいいなって思ったりして、やってみたら才能があったりするかもねって思った。もちろんないかもしれないけど。やってみてないんだけど。
世の中、簡単そうに見えることが多すぎる。ラテアートが簡単そうってことではないけど。なんでもすごい人ほど簡単そうにやるから。すごい人がまるですごくないようにしてる。それが悪いとかではなくて。受け取る側がそこをちゃんと計算して敬意を払わないとなって思う。やったらできることってあるでしょ。ピアノ弾けないとかいうけど、どこから弾けるとするか、って話でもある。鍵盤押せたら弾けるとか。1本の鍵盤の幅に体の一部をどこでもいいから収めることができたらそれは弾けるとするとかさ。手の指で弾かなきゃいけないって決まりでもないし。鼻で笛吹く人もいるし。もっと言うと、話すこととか、文章とか。絵とかもさ、素人でも描けない訳ではないから描いてみたりするとわかるけど、全然思うように描けないのね。思えていないのかも。想像できることは実現できる。そうでしょ。でもたぶん、ぼやけているんだと思う。わたしが描きたいことはわたしのなかでまだまだピントが合ってない、こんな感じ、で、描き始めたらやっぱり見通しが立っていないことは描けない。やってみることが1番知ることになるって思ってる。とか言いながらこの文章も前に絵を描いたときのことを思い出しながら書いてる。今日1日、ペンも持っていないのに書いてる。やってみたことがないことのことをとやかく言うのは、やっぱり正しくないのかもしれないなって思った。やってみたい。いろいろなこと。

わたしの波がすごい。昨日めちゃくちゃな(いい意味でも悪い意味でも、普通ではないという意)料理をしたかと思えば、今日は2食くらいスキップしたりする。料理は好きなんだけど。食べることに興味がなさ過ぎる。1食1食に対する興味。これから生きる中で何回食事をとれるのか。真面目に考えたことはない。逆に考えたことあること、大事にしてるってこと。あと何回実家の犬に会えるのか、あと何杯美味しいコーヒー飲めるのか、ほれやら数えたことはないけど考えたことならある。量より質というか、頻度より割合なのかもしれない。ひとつも無駄にしてたまるかって気持ちよりは、スキップしてもいいから美味しくて楽しく食事だけにしたいという気持ち。コーヒーも美味しいコーヒーだけ飲んでいたい。そんな感じ。

今日は何にもしてないけど、お家から出なくて偉かったねって自分で自分を褒めてあげたい。お家から出ないし、何もできなかったことに対してネガティブにもなってない。いつも楽しくしているから、たまにはこんな日もあっていいよねって甘やかすことができてる。全然強がりじゃない。でもこれは大事で、成長。前はもっと不完全な完璧主義みたいな感じだったから。できないんだったらもう二度とやってたまるか、じゃないけど。完璧にできなかったからわたしはもうだめだ。連続記録途切れたからもうやる意味ない、みたいなね。今日のこれでわたしはnote滞らせたり、ごはんスキップしたり、やるって決めたこと全然できなかったけど、じゃあもうだめだ、二度とやらないって気持ちになってるかっていうと、全然そうじゃない。今日はだめだったてへぺろだけど明日はやってみようかなって気持ちでいられてる。まず目標が毎日やることであるけど、欠かせたりしたらダメですって評価にしてない。毎日加点方式。よくやったってなったら、はなまるつける。スタンプカードつける。今日できなかったけど明日やったら同じ1ポイント。そう思ってる。
それと、やりたくないことを、目標にしてない。ごはん3食ちゃんと食べることも、まぁめちゃくちゃやりたいかって言われると、やりたくなるような工夫をしないといけなくはあるけど、やりたくなくはないんだよ。健康でありたいし。note書くのも好きだからやることにしてるし。

もっとお風呂入ってたいので入ろうと決めた。予定はあるけど。予定を守るかどうかはわたしが決める。なぜなら、いちばん守るべき目標は楽しむことだから。
文章書くの楽しい。書かなきゃって思うと億劫になったりするけど。わたしは考えることがやっぱり好きだし、考えた結果、思いもよらないこと思いついたり気付けたりするし。ほんとにわたしが考えてるのかなっていう結論出たりする。楽しいでしょそんなの。ひとりでいるのに別人みたいだ。
ひとりあそびは得意なんだよな、こんなふうに。他の人もってなると難しい。他の人を、だけならできる。他の人を楽しませるためだけに全力とかならできる。それでその人が喜ぶことがわたしの喜びになるとかもできる。一緒に楽しいって難しい。わたしが楽しいかどうか決めつけられたくないし、決めつけたくもない。人を巻き込むとほんとに楽しいかどうか気になってわたしが楽しくなくなっちゃうから。向いてないですね。ひとりならこんなに楽しいのに。残念すぎる。

到達目標と行動目標を決めてる。こうなりたいっていうのと、こういうことすることでそうなろうっていう。ごはん3食って行動は健康と美容の到達目標のため。ごはん3食のためには楽しく料理するとかっていう施策があったり。到達目標が本気でいいと思ってなかったら全部が全部、やる意味がないことになる。やり方もそう。楽しくなかったら意味がないってわたしとの約束は、守れるし守りたい。守りたい目標立てることって良すぎる。うわなんか意識高い人みたいでやだな。楽しく生きたいだけなのに。

好きな人のインスタライブは生きられる。インスタライブのコメントの幅を少しでも小さくするためには、コメントを送らないといけない。完全に私利私欲のスクリーンショットのためなのだけど。これはもう、コメント幅というのは致命的なので、黙っていたくてもどうしてもコメントを送らざるを得ない状況。
ただなにも伝えたくないし何も思われたくないので、迷った末に事実だけを送ったりした。そう事実。
一方的に見ていたくてなにも思われたくない。そんな存在の好きもあると思う。急に話しかけられたってことさえも思われたくない。わたしの存在は視聴者数の数字だけで十分。他の媒体の他の方の配信はその限りではない。楽しみ方はいろいろなので。

好きな人のすべてが好きだ。別に全部とか雑に言ってるわけじゃないよ。たくさんの好きなところがすべてをひっくるめて、すべてを許してしまえる。そういうかんじ。盲目的。話す声も表情も一挙手一投足も。そしてなによりも、好きな人の言葉が好きだ。話し言葉ももちろん好きだけど、その人の書く文章が好きだ。その人の思惑と、それを表現するための言葉という手段が好きだ。たぶん行ったり来たりなんだと思う。だから好きになったんだなと思える。見るたびに。いまのわたしが人を好きになるのに言葉は欠かせないと思う。その人の使う言葉はその人そのものなんだと思う。わたしもきっとそうだ。わたしの使う言葉がわたしそのものだ。その事実はとても正しくて美しくて危険だと思う。言葉は間違いなくわたしをつくっていくし、そのことはとてもシンプルで論理的で体系立っていて、ものすごく脆い。わたしがどうしたいかってことを正しく言葉にしていかないといけないと思う。流されたらそうなってしまうね。気をつけたいところ。
逸れすぎてるけど。結局のところ大好きですってそれだけでしたね。わたしの寂しさを埋めるものは星の数ほどあるけど。好きでいさせてほしいこれからも。好きな人の好きなところを見られるのは幸せだなぁと。思います。

今日はとってもいい日だったよ。今日は2日分くらいしか生きてないけど。通勤してた時に比べたら全然生きてる。また夜を更してしまったな。まとまりないのに。お風呂とおふとん以外にも考える時間ほしいな。考える時間を考えないと。

もうおわろ。
今日も好きです。

またね

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