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SNSはすき・なくなれ・すき


 大好きで大嫌いで。
 生きたいし死にたいし。
 頑張りたいし眠りたい。

 私の世界は、いつだって極端で、何かを感じるたびに心が痛い。産まれた頃からずっとそうだし、死ぬまでずっとそうなんだろう。
 つまるところ私は痛い。
 作家としてTwitterをはじめた頃からだろうか。SNSに触れるといつも魂を吸い取られるような気がしているし、事実、吸い取られているのだと思う。
 いつだってトレンドの言葉を含んだタイムラインには、共感を貰うための、着飾った言葉が散らばる。美化された素直さと、かしこぶった正義が次々に投下され、それらを目で拾うたび、世界が汚いものに見えて、生きているのが心底嫌になる。

 なのに「生きています」という報告のように、定期的に何か、それに代わる言葉を発信しないと、自分が死んでいくような感覚になるのは、とてもこわいことなのかもしれない。

 制服を着ていた頃、SNSがない世の中に生きていた頃、世界はきっと、もっと眩しかった。ケータイは好きな人からメールを待つだけの道具で、それでよかった。
 スマートフォンなんて、投げ捨てたいと時々思う。毎日、誰とも連絡なんて取りたくないとか思ったり、わざわざLINEなんてしなくてもこの想いがテレパシーで届けばいいのにとか思ったりする。
 けれどもうそれがない生活できない自分もいて、わからないことがあると、検索欄に言葉を打ち込み、すぐに何かを調べたがる。

「おまえって病んでるな」
「違うよ。病んでいるって言葉がどうでもいいくらい、この精神状態がデフォルトなんだ」
 そんな会話をしたいくらいの真夜中。
 もういっそ、諦めようと感じた。
 不特定多数の誰かに向けて、元気な姿を見せ続ける努力はもうしないでもいい。
 だってきっとそれは、「私」がするべきことではなかった。
 私にとっての言葉は、痛みの証であった。
 自分を救うためのものであった。
 それにしたって、私はどこにいても浮くし、自分だけがいつも世界から取り残されている気がしているし、実際そうなのだと思うし、それが「私」の役目なのだろう。
「そしてどうしたって私は素晴らしい女の子にはなれない」
「そうやな」
「だからやっぱり、痛い女の子でいることにした。前向きに」
「それしか無理やろ」
「うん」
 何歳になっても自分を女の子だとか思っている痛い私は、きっと何歳になっても痛いままで、いつか子供を産んでもそうだろうし、死ぬときですら「私の人生って、他人と比べて素晴らしかったのだろうか?」なんて悩んでいるだろうし、まるでどうしようもなくて、だからせめて、これ以上死にたくならないように、もう変わろうなんて思わないことにした。




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