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『淡々に幸』

早朝のキリっとした空気と、缶コーヒーがお腹を温め充たしてゆく感覚を今日も味わう。後ろにいる相棒にもたれかかり美沙は一つ息をついた。

一つくくりの髪の毛に、黒縁の眼鏡。マスクは白の不織布マスクだし、羽織っているのは会社のジャンパー。色気なんてものはない。

美沙は路線バスの運転手だ。

白い手袋をジャンパーのポケットから取り出し、女性らしい華奢な手にそれをはめる。ちなみに指輪をはめる予定はない。
相棒の側面を軽くたたいて、額をその冷たい表面につける。
「今日もよろしく。安全に行こうね。」

始発の時刻だ。
初めの停留所へと向かい、いつもの顔ぶれにホッとする。
乗り込んできたそれぞれの顔は相変わらず眠そうだ。
ピ、ピ、ピと定期券をかざしたときに鳴る音。
いつも乗り込む工場勤めらしき男性からは二日酔いの匂いがした。
相棒はなめらかに発車する。


この4月で美沙はバスドライバーになって10年が経った。
一体いつから自分がバスドライバーになろうと思っていたのかを、美沙は最近よく考える。正直自分のことなのに全く覚えていないのだ。

確か小さなころはパティシエになりたくてよく菓子を作っていた。だが今気が付けば毎日バスを運転している。
女のバスドライバーはさほど多くない。だから今でも運転手が女とわかって舌打ちする人や、運転技術の心配をされることがある。正直あまりいい気分はしない。

それでも一体どうして自分はバスが好きなのだろう。
そこだけがぽっかりと穴が開いたように理由がわからない。
分かるのは、きっと大した理由なんてないということ。だから自分はこんなにも忘れてしまっているのだ。


美沙は自分の鞄から色の入ったグラスを取り出した。気が付けば夕日が差し込んでいる。

「もう何になりたいのかわからない。将来どうしたいんだろうね。」
混雑した車内の中で、女子高生の通る声が聞こえてくる。
「私だって結婚して早く子供産みたいくらいしか無いよ。」
「焦る。」
「分かる。」

美沙も心の中で「分かる。」とつぶやく。
自分は高校生の時から彼女たちのようにものを考えていただろうか。いや、考えていたらもう少しパティシエに近い何かをしていたかもしれない。
でも、だからと言って今の仕事は嫌いでもない。

早朝の空気と缶コーヒーのうまさを知れたし、始発の顔なじみもできた。
停留所が来て、先ほどの会話をしていた女子高生が下りてゆく。
就職して10年、ああして毎日迎え、陰ながら見守り、送り届ける存在もできた。

終点に無事到着して、美沙は営業所の車庫に相棒を停める。
結局なぜ自分はドライバーになったのかは、今日も分からずじまいだった。

伸びをして、バスから降りて、手袋をはずす。美沙は相棒の側面に朝と同じように額をつける。
1日走った彼は、朝と違って熱をもち、一日の美沙の疲れを癒すようだった。


また明日の缶コーヒーが楽しみだ。


頻繁にお世話になっている女性ドライバーへ。
安全運転をありがとう。


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