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利他的教育

中学生の頃、僕は同級生に授業の内容や体育の技術を教えることがありました。僕が教えることで彼らが理解し、新しいことをできるようになるがとても嬉しかったんです。この経験は僕に「教える」という仕事の魅力を教えてくれることになりましたし、そこから教員を目指したんです。

しかし、時が経つにつれ、教育に対する僕の考え方は変わりました。かつては、教えることで相手が理解する瞬間を教育の面白さだと思っていました。

色々な教育方法や考え方に触れるうちに教えることで相手ができるようになると考えることがそもそも違うのではないかと考えるようになりました。

美学者伊藤亜沙さんの言葉を通じて、「利他」という概念について深く考えたときも教育に通じるなと思いました。

利他の大原則は、「自分の行為の結果はコントロールできない」ということなのではないかと思います。やってみて、相手が実際にどう思うかは分からない。分からないけど、それでもやってみる。この不確実性を意識していない利他は、押し付けであり、ひどい場合には暴力になります。

『「利他」とは何か』


教育においても「自分の行動の結果をコントロールできない」という不確実性を受け入れることが大切かなと思います。つまり、僕がどれだけ教えようと努力しても、相手が実際にどう思うか、どう行動するかは分からないのです。

かつての「自分が教えることで相手ができるようになる」と考えていた僕にはこの不確実性を受容することが欠けていたように思います。他者を助けると考えているようで、実際には相手を動かすことができると思いこみ、またそこに面白さも感じていたんだと思います。

相手の行為をコントロールできないという不確実性の受容が欠けていると、教育は押し付けや、最悪の場合、暴力に変わってしまう可能性があるんです。

教育の本質は、相手の可能性を見出し、それを伸ばすことにあると最近では理解できたように思います。それは、単に情報を伝えるのではなく、相手が自身の内に秘めた可能性に気づき、それを発展させる手助けをすることです。

このプロセスでは、「聞く」ことと「余白を持つ」ことが重要です。

この点についても『「利他」とは何か』で伊藤亜沙さんが書いてくれています。

相手の言葉や反応に対して、真摯に耳を傾け、「聞く」こと以外にないでしょう。知ったつもりにならないこと。自分との違いを意識すること。利他とは、私たちが思うよりも、もっとずっと受け身なことなのかもしれません。
(中略)
利他とは「うつわ」のようなものではないか、ということです。相手のために何かをしているときであっても、自分で立てた計画に固執せず、常に相手が入り込めるような余白を持っていること。それは同時に、自分が変わる可能性としての余白でもあるでしょう。この何もない余白が利他であるとするならば、それはまさにさまざまな料理や品物をうけとめ、その可能性を引き出すうつわのようです。

『「利他」とは何か』

相手の話を真剣に聞き、彼らが自らの言葉で表現することを尊重する。そして、彼ら自身が考え、学び、成長するためにこちらの教えを押し付けようとしないでいること。さらに相手と関わることで自分自身にも変化が起こる。これらは、教育において最も価値ある行動ではないかと思います。

相手が自らの言葉で理解し、表現することを通じて、彼ら自身の可能性に気づく手助けをすること。利他という考え方から教育について実践していきたいなと思います。

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