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「愛」を知ったら、「恋」が出ていった。

高校生の頃、突然友達が「恋と愛の違いってなんやろ?」と言った。

すると、もう1人の友達がいそいそとスマホで調べはじめ、1番上にある記事を見てこう言った。
「『恋は1人でするもの、愛は2人でするもの』らしいで!」と。


その時は、ただその質問に対してちゃんと、世の中から答えが返ってきたという事実にびっくりして、それが真実かどうか、納得できる見解かどうかなんて気にせず、
「へー!!すごい!そうなんや!確かにそうかも!!」
なんて言ってはしゃいだもんだ。

当時は、まだ「恋」すらも知らなかったが、
少しずつ大人になり、誰かを好きだと思う感情やその人を思うとドキドキする感覚、誰にも取られたくないと心がザワザワしたりキュッとなる瞬間も経験した 。
これが「恋」というものだということを、感覚的に脳が悟っていた。


さらに大人になり、自分ではない誰かの幸せを願ったり大切な人が苦しんでいるのを見て自分も涙を流したり、笑顔にしたいと努力したり、恋ではない何かを体感した時、「ああ、これが愛なんだなあ」と、理解した。


一言で定義することは、今でもむずかしいと思う。

高校生の時に友達が言った『恋は1人でするもの、愛は2人でするもの』が間違いだとは思わないけど、きっと最適解でもないだろうな、とも思う。


でも、わたし自身が自分なりの「恋」と「愛」を体感して、感じたことがある。

それは、「愛」を知ったら「恋」の感覚がわからなくなったということだ。

厳密にいうと、わたしが「恋」と認識していたような、心がドキドキしたりザワザワしたり、キュッとするような感覚を、もう完全に体感できなくなった(≒どうやってその感覚を得ていたのか再現ができない)。
同じような感覚を、もう一度体験してみたいと思っても、無理なのだ。

人に対しても、ものに対しても、動物に対しても、「愛」を感じられるようになってからというもの、出会う全てが愛情の対象かそうでないかの二つに分かれてしまって、恋という選択肢と感覚が生まれなくなってしまった。


これが何も、悪いという話ではなく、自然とそうなっているから成長の過程で精神的な何かを習得した結果なんだろうと思ってはいるけど、
ただ、少し寂しい気持ちがした。
昔感じていたあの感覚を、また感じることができたら、今わたしはどんな判断をし、どんな行動を取るのかとても気になる。


恋が、必ずしも人間を対象としたものではないかもしれない。
人それぞれの「恋」の基準も違う。

だからこそ、これまでわたしが認識し、感じた「恋」以外の「恋」に巡り合った時、「ああ、これも恋なのか」と思えたりするのだろうか、その答えが知りたい。


もう一度、「恋」というものを体験してみたい。




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