病みツイと意味

言語哲学の始祖と呼ばれる哲学者、ヴィトゲンシュタインは「語りえぬものについて沈黙せよ」という名言を残した。これにはいろいろな意味があるのだが、その一つが「個人的な話に意味はないよね」ということ。
たとえば、テーブルの上にペンがあるということは事実だから「テーブルの上にペンがある」という文章には意味がある。しかし、テーブルの上にペンがあったらいいよね」ということは、事実でもなんでもなくてただの願望だから、鳴き声みたいなもんだよね。ということ。

事実には意味があり、非事実には意味がない。では「お金がなくて死ぬほど辛い」という文章は事実だろうか?否、これは彼/彼女の個人的な感想であって、彼/彼女にとってのみ事実であり、客観的には無意味である。
価値観に左右されるあらゆる文章はこのように無意味になりやすい。

もしこの文章から事実のみを抜き出すのであれば「辛いという感情が人間にはある」になるだろう。感情は科学や論理では見つけ難いかもしれないが、それでも質問して回れば絶対に存在することが分かる。だからこれは事実である。
一方で「お金がない」というのが何円からの話なのか。「死ぬほど」というのがどれくらいなのか。彼/彼女が本当に辛いのか。この3つはコンセンサスを得られないから捨てるしかない。

よって、病みツイートには本人にしか意味がないし、それどころかときには誰かにとって有害になる。
たとえば、私は勉強しかできないから不幸だ……と言ったとき、私は勉強もなにもできない者を傷つけている。

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