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【幸福知のためのワークショップ・シリーズ standART beyond】①「幸福知」とは何か~東京大学にてアート・ワークショップ・シリーズがスタートします

東京大学UTCPにて、アート・ワークショップの新シリーズを担当させていただくことになりました。
【standART beyond】という名前のシリーズで、どなたでもご参加いただけます。

「知に生命を取り戻す」というテーマで、論理や言語や証明にかたよりがちな知の範囲を、「アート」をてがかりに、直観知までも含む、ホリスティックで有機的なものへと拡張することにより、真のウェルビーイングを実現してゆこう、という試みです。

第一回イベント情報(2024年5月11日開催)
standART beyond 「幸福知」のための、アート・ワークショップ・シリーズ | Events | University of Tokyo Center for Philosophy (u-tokyo.ac.jp)
(お申込みもこちらでしていただけます)

このワークショップは、長年わたしがあたためてきた「論理知」と「直観知」を繋ぐ、というアイデアが基盤になっています。
アカデミアとアート、左脳と右脳、などとも言い換えられるかもしれません。

話したいことはとってもたくさんあるので笑、少しずつこのnoteでお伝えしていこうと思います。

今回はまず、シリーズのサブタイトルにもなっている「幸福知」という言葉について。

この言葉は、わたしが今回勝手に作った造語なのですが、「幸せに生きるために大切な知のありかた」をざっくりと指しています。

ちなみに、サブタイトルの英訳は

【Art Workshop Series on Exploring Integrated Holistic Intelligence for Well-being】

としたのですが、じつは「知」の訳語に何を当てるか、少しだけ悩みました。

最終的に、「知能」「知性」「知力」などを意味するintelligenceを当てたのですが、わたしの意図としては、「幸福知」はとても多面的なものです。

ここで「知」というややおおざっぱな語で代表させているものを、もう少しかみくだいてみると、以下の3つくらいに分けることができるかなと思います。

①「自分は幸せだ」と、幸福を感じることができる知のありかた。
 =recognize、feel、senseなどの、感じ、メタ認知する「知」。

②ほんとうの幸福とは何かを見極め、深める知性。
 =insight的な、洞察力としての「知」。

③自分の人生や世界をより幸福にしてゆくための知力。
 =createするパワーとしての「知」。

「幸福知」とは、だいだいこういうものを指しています。
あまり厳密でもないので、また加筆修正するかもしれませんが。笑


「知」というのは、そもそも、人類が便利(つまり幸福)のために発達させたものであるはずなのですが、

時代を経るにしたがって、逆に人間から生き生きした喜びや生命力を奪うような側面もまた、大きくなってきたのではないかと思います。

たとえば、西洋近代が、肥大した自己意識を「わたし」ととらえ、その自己意識とそれ以外のあいだにはっきりとした分離線を引いたことによって、生きることは大いなる不安と背中合わせになりました。
自分がどうして存在しているのか、自我には分からないからです。

これとは逆に、「プリミティブ」と称されるような世界観においては、人も、他の生物も、あるいは無生物ですらも、大いなる生命の流れのうちに支えられ、そこから生まれ、それに育まれ、そこへとまた融けてかたちを失ってゆくようなものでした。
そのことによって、人間の生の意味は、より大きな「いのちそのもののかけがえのない一部」という文脈のうちに抱かれることができ、おのれが生きる意味も、安心感も、そこから汲み上げることができていたのです。

知が苦しみになっている他の例としては、現代日本のように、「いつ誰がどのように再現しても必ず同じ結果が出ること」「必ず数値的に測定できること」「必ず成果が予想通りにあげられること」などといった「ひとつしかない正解が絶対善である価値観」が主流になることもあげられます。

そういう「無色透明のデータ」から零れ落ちる、あまたの「わたしがとても大切に思っている生の手触り」や「ほかの誰とも違う感覚」や「結果とは関係なくただ嬉しくて楽しいから遊んでしまうこと」などといった、実体のある幸せの感覚が、かえりみられなくなってしまうから。

そうした「論理的には正しいかもしれないけれど、幸福からは遠ざかるような知」のありかたが、その「正しさ」によって、自分で自分の首を絞めるようになってきてもいる気が、いま、するのです。


このワークショップでは、知をもういちどほどき、ゆるめ、解放することで、本来の知の豊かなポテンシャルを取り戻そうとしています。
論理は美しくパワフルです。でも美しすぎて、パワフルすぎて、論理が論理の中に閉じこもってしまうと、自家中毒を起こすから。


「知に生命を取り戻す」。
それは、知がほんとうに、わたしの、人類の、社会の、そして地球のウェルビーイングのために働くものとなるために、必要なことなのではないか。
学者として、アカデミアのはじっこからずっと知の世界を眺めてきて思うのは、そういうことなのです。


人間には、ふたつの脳があります。
左脳と、右脳。
脳科学者であるジル・ボルティ・テイラー博士によると、このふたつの脳は

「完全にまったく別の人格」

なのだといいます。

左脳が司るのは、ロゴス(ことば)。サイエンス。論理。分離。
右脳が司るのは、ピュシス(自然)や、ゾーエー(個の生命を超えたいのちそのもの)。アート。直観。すべてがひとつであること。

そんなふうに真逆の世界をふたつ、わたしたちはそれほど大きくもない頭蓋骨の中にもっています。

どちらが正しくて、どちらが正しくない、というのではなく。
ただ、「よりよく生きる」ためには、バランスや、順番というものはあると、わたしは考えている。
論理⇒直観、ではなくて、直観⇒論理へ。
論理とその外野の直観、ではなくて、直観という母胎から芽吹き、大樹となる論理へ。

そんなふうに知のあり方を組み替える試みが、このワークショップなのです。

ロゴスを忌避するのでもなく。
サイエンスを否定するのでもなく。

そもそもロゴスの母胎は、ピュシスそしてゾーエーの、言葉にならない「未意味(これもわたしの造語です)」のなみなみとした豊かな海であり、ロゴスはそこに根を張り、そこから源泉を汲み上げることによって、はじめてほんとうに意味あるものとして成立しているのだと思います。

より「実在する世界」をなまなましく感知しているのは、非言語的な感覚のほうだからです。

すべてでありながら、何でもない、そうしたいのちそのものが、いまだなんのかたちもなさない「未意味」の海として、まず右脳的な五感や直観によって、言語以前のレベルで感知される。

それを脳梁を通じて、左脳が受け取ると、それら無数の要素からどれかを選び、切り出し、ストーリーに仕立ててゆくことで、言語や論理が立ち上がり、編まれてゆく。

直観と言語は、そうした関係性にあるのが自然なのだろうと思います。ロゴスは、そもそもの生命そのものという母胎から離れては、意味をなさないはずなのです。

だから、もしロゴスが独り歩きして自家中毒を起こしているなら、もういちど、生命へと再接続してゆく必要があって。
ロゴスがそのように本来の力を取り戻すとき、人間の知はほんとうの幸福を創る力を獲得するのだろうと、わたしは考えているのです。

AIという知能が「暴走する」のは、その知が生命に根差していないから。
だから、人間が生命に軸足を置いて、AIをコントロールしなくてはならないし、AIにはできない手触りのある生き生きとした幸福な世界を創造していかなくてはならない。

そんなことも考えながら。


自分が幸福であることを見出しrecognize、感じるfeel/senseことができ、

本当に幸せであるとはどういうことかを、生命の内奥に根差して深く洞察し、本質をつかんでゆくinsightことができ、

自分も他者も世界も、同時に最高に幸福な未来を創りだしてゆけるcreate力。

そんな、全方位的ウェルビーイングな、優しくて幸せな世界のための、軽やかで楽しくてみんなが笑える高度な知性を、できるだけたくさんの人とともに体験し、開拓していけたらいいなあと、思っています。











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