くるくる回ってきらきらと――映画『きみの色』感想
映画館を出る頃、頭の中でずっと音楽が鳴っていた。
「♪ 水金地火木土天アーメン」
太陽のまわりをくるくる回る惑星のように、その“聖歌”はずっと私を取り囲んで離さない。
人混みの中ではあったものの、もうガマンできず、周りにギリギリ聞こえない声量で「♪ 水金地火木土天アーメン」と唱えた。
とても中毒的な歌だ。
■ あらすじ
先日、山田尚子監督の新作アニメーション映画『きみの色』を見た。
映画のあらすじはこんな感じだ。
本作の主要人物三人は、それぞれに隠し事を抱えている。
たとえば主人公・日暮トツ子は、人が「色」で見えるという不思議な感覚を持っている。
通常の視界に加え、それとはまた別の視界で(まるでサーモグラフィーのように)その人固有のオーラのような「色」を感知できるのだ。
トツ子の周囲の人物は当然その感覚を持ち合わせておらず、今まで彼女が疎外感を味わってきたと思われる描写が冒頭に見られる。
トツ子の同級生・作永きみは、周囲からの期待のまなざしと低い自己評価のギャップに苦しみ、周囲に無断で高校を退学してしまう。そして、そのことを同居する祖母・紫乃にずっと打ち明けられないでいる。
他校の同学年の男子生徒・影平ルイは、「将来は医者になって島の診療所を継いでほしい」という母親からの期待に反し、隠れて音楽活動をしている。
彼らが時おり見せる物憂げな表情から、彼らの悩みの深さが窺い知れる。
■ 監督・山田尚子
不勉強ながら、私は本作で山田尚子監督の名前を始めて知った。
ただ、山田氏が手掛けてきた作品『映画けいおん!』『リズと青い鳥』などは(タイトルだけ)知っていたので、それらを作ってきた監督だったのか~と後から思い当たることとなった。
そんな事情もあり『きみの色』は個人的にはまったくのノーマークだったのだが、以前劇場で予告編を見たときになんとなくピンとくるものがあり、今回鑑賞するに至った。
■ 見る前の懸念
本作はざっくり言うと「高校生バンド」の話である。
面白そうとは思いつつ、鑑賞前に一つの懸念があった。
バンドというのはそもそもが、人間関係における「しがらみ発生装置」の最たるものである。
“バンド”と書いて“揉める”と読んでもいいくらいだ。
このバンドは女性2、男性1の構成。
ルイくんは(自らの魅力に無自覚な)イケメン好青年というキャラクターなので、彼のことを女性二人が取り合うというよくある感じの展開になったらイヤだなぁと私は思っていた。
しかし、それはまったくの杞憂であった。
三人の関係のなかで、衝突や軋轢は発生しない。
中盤からきみはルイに恋愛感情を抱くようになる。
トツ子もルイのことを魅力的な人物と思っているが、その気持は恋愛感情に結び付くものではなく、きみの仄かな恋心を陰ながら見守ることに徹している。
そして、三人の周りの人物を見ても、普通の映画でいうところの「悪役」「イヤな奴」が登場しない。
もちろん、胸が詰まるような展開はある。
たとえば、もうすでに高校を退学しているきみに対して祖母の紫乃が「もうすぐ夏服でしょ。春服、クリーニングに出さなきゃね」と声を掛ける場面がある。また、同校の出身ということから「きみちゃんがおばあちゃんと同じ制服を着るなんてねぇ」と無邪気に喜ぶ紫乃を見て、きみはかすかに複雑な表情を浮かべたりする。
結果的に紫乃の言動はきみを追い詰めてしまっているわけだが、紫乃はただ、きみの退学の事実を「知らない(知らされていない)」だけである。
かえって悪気がないだけに、きみの罪の意識が更に深まっていくという側面はあるけども……。
■ パンフレットのインタビューより
『きみの色』パンフレットのインタビューにおいてもインタビュアーから「今作で大きいのが、皆が受け止めてくれる世界で、妬み嫉み、悪意や敵意の視点がないところだと思います」という指摘があり、それに対して山田氏はこう答えている。
インタビュアー「そもそもストレスがかかっている子たちのお話でもあるわけですよね」
■ 平坦で退屈な物語?
明確な悪役がおらず、三人のバンド活動を妨害すべく立ちはだかる人物は出てこない。
三人の関係のなかでも恋愛感情のもつれによるゴタゴタなどは起きず、やがて来たる学園祭での初のライブ演奏に向け熱心に練習し、バンドのオリジナル曲(「水金地火木土天アーメン」はその内の一つ)を黙々と良いものに仕上げていく。
こう書くと、なんだか平坦で退屈な物語を思い浮かべる人もいるかもしれない。
でも、実際はまったくそんなことは無い。
一般的に、主人公たちの前に立ちはだかる外部的なストレスというのは、もしかしたら物語を安易に進めやすくするための麻薬なのかもしれない。
先程のインタビューは、そういうストレスがたとえ無くとも魅力的な作品を作れるという山田氏の「挑戦」の決意表明である。
そして、三人にそもそもストレスがかかっているのと同様に、この現代を生きる我々にも多かれ少なかれ似たようなストレスがのしかかっている。
「せめて映画の中くらいは」というのは若干切ない言葉だが、この物語の展開に心地よさを覚えるくらいには、我々も日々のなかで疲弊しているのかもしれない。
■ トツ子の“光彩感覚”
そして、この作品を非凡たらしめる要素の一つとして、トツ子の人の“色”が見える感覚は欠かせない。
“色”のなかでも彼女が好む色があり、それはたとえばきみの鮮やかなブルーである。
トツ子はきみのことを好いているが、厳密に言えば、最初に好きなものとして感知したのはきみの“青”の方である。
きみの“青”と、それを有するきみ自身の両方を、トツ子は愛おしく思っている。
色が好き、という要素が加わることで、従来の“百合”とはまた違った、友情と恋愛のちょうどはざまの感情が表現されており、私の目にはそれが新鮮に映った。
そしてそのトツ子の感覚は、映像表現という形でも、文字通り本作に色を添えている。
そう頻繁ではないが、トツ子の心が特に動いた瞬間に、“色”を感知する彼女の視界が観客の前に提示される。
トツ子ときみがクリスマスマーケットでルイへのプレゼントを選んでいるとき、ルイへの秘めたきみの恋心にトツ子がふと気付く。
その瞬間の、初めて恋を知った少女の“色”の表現。
乱反射するプリズムが、きらきらとスノードームのように舞い降りて世界を祝福する。
この世と地続きの筈である物語の世界が、一気にファンタジーな空間へと変貌する。
通常の世界の設定であれば「過剰演出」という誹りは免れないかもしれないが、何より本作には「きみの色」が見えるトツ子がいる。
その“色”の美しさは、日常生活においてともすれば見失いがちな“人間の輝き”の直喩である。
トツ子の光彩感覚は、本作をアニメーションでしか描くことのできない、独自の高みへと昇華させている。
■ 祈りの言葉の凄味
トツ子が通う高校はミッションスクールという設定である。
登場人物が口にする聖書の言葉は、印象的なものが多い。
私はキリスト教に詳しくないが、“人を赦す”ことに特化した言葉の数々には独特の凄味があり、それらに対峙するたびに私は敬虔な気持になる。
■ 光の三原色
ところで、三人にはそれぞれ“色”が割り振られている。
きみは“青”。ルイは“緑”。トツ子は“赤”である。
言うまでもなく、それらの色の構成はRGB、「光の三原色」である。
シアン・マゼンタ・イエローの「色の三原色」とはまた異なり、光は重なれば重なるほどその明るさを増す。
そして、赤・青・緑の光の強さが最大値で三つ重なった瞬間、生まれる色は「白」である。
■ 三人がステージで見た「色」
本作で何よりも圧巻なのは、学園祭のライブ演奏シーンである。
バンド構成は、シーケンサーなど複数の電子楽器を扱うルイ、主に電子ピアノを奏でるトツ子、そしてギターとメインボーカルはきみ。
今まで三人が積み上げてきた日々の全てが解き放たれ、まさしくクライマックスを迎える。
少し前に聖書の言葉を紹介したが、“聖性”というのは宗教的なるものだけに宿るものではない、ということを改めて痛感させられた。
彼らは今回学園祭で自分たちのオリジナル曲を演奏・披露したわけだが、音楽に限らず人前で何かをやる・見せる「芸術」という行為は、やはりそれでしか成し得ない、人が天上に接近する唯一の表現なのである。
いつもはどちらかというと物静かな三人だが、彼らは音楽という表現手段を通じて「いま、光のなかに立っている」ことを、彼らの想いを、全ての感情を、爆発させる。
「光の三原色」によると、赤・青・緑が集まれば、どんな色でも作り出せるという。
それらの光の色と熱は音楽と共に(ライブ会場の体育館、そしてスクリーンのこちら側の)客席へと雪崩れ込み、「白熱」を伝染させる。
祝祭的な空間は、いっときのものでしかないかもしれない。
でもこの瞬間、まばゆく輝く白い光は、我々が抱えるこの世の全ての憂さを晴らしてくれる。
光と音の奔流に飲み込まれることの「忘我」は、この上ない祈りを私たちに喚起させてくれることだろう。
そしてスポットライトの下、最大限の光の強さで重なった瞬間、三人の目に映った「白」はどんな色をしていたのだろう。
■ 夜の帰り道
やっと人通りが絶えた。
「♪ くるくる回ってきらきらとうとつ くるくる回ってきらきらと」
少し声量を上げ、再び「水金地火木土天アーメン」の一節を口ずさみながら歩く。
私のまわりをくるくる回る惑星が、夜の帰り道を照らしてくれる。
その足取りは、とても軽かった。
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参考文献
・『きみの色』パンフレット(東宝)
・佐野晶『小説 きみの色』(宝島社文庫)
・『CONTINUE』Vol. 84[第1特集]『きみの色』と牛尾憲輔の音楽(太田出版)