日本傾国中(2)
祖国が傾いている。
日本が滅びようとしている・・・と言っても、過言ではないと思う。
その原因は何で、何が必要なのか。
思うところを語っていきたいと思う。
芸能界の変遷
松本人志の事件に関わった女性たちの行動は、あまりにも無警戒だったと言わざるをえないだろう。
彼女たちよりも前の世代の女性であれば、親しくもない男性からの誘いに乗る事は無かったはずだ。
例え、誘いに乗ったとしても、逃げられるような手段を整えるだとか、男性を同伴するとか、いろいろな対策を講じていたと思う。
松本も、一昔前の女性を知っている世代なので、参加した女性たちが、なんの警戒もしていないのは、半ば同意しているモノと勘違いしていた可能性もある。
実際、松本と肉体関係を持ち、仕事を得ようとしている女性たちは、無警戒で参加するのだから・・・。
女性側が、そのつもりなのか、そうでないのか、松本側が判断する事は難しいだろう。
求める男と、提供する女がいる限り、この手の事件は無くならないと思う。
そして、私は、太古の人たちも、現代のような性欲の問題を経験していると考えている。
旧約聖書のソドムとゴモラは、性欲を制御しきれず、ついには、神によって滅ぼされた。
この神話は、性欲の制御をしなければ、社会が崩壊する事を示唆する物語だと、私は思う。
人々は、社会を維持する為には、性欲の制御が必要だと学んだのだ。
と言っても、三大欲求の一つなので、完全に制御する事は不可能なのだが、ある程度の制御は可能だと思う。
そして、かつての我が国は、それが出来ていたと思う。
1908年(明治41)に起きた、出歯亀事件(でばがめじけん)を御存知だろうか。
この事件は、当時の人々を震撼させた。
池田亀太郎(通称、出歯亀)という男が、女風呂を覗き、銭湯から帰る女性を襲い、殺害したのだ。
当時の人々が震え上がったという事実は、これまでに、そんな事件も、そんな男もいなかった事を現す(ただし、女風呂を覗く者はいた)。
その後、出歯亀という言葉は、スケベな男性の代名詞として使われる事になるが、それだけ衝撃的な事件だったのだろう。
とにもかくにも、百年前の我が国には、松本人志のような男はいなかった。
不本意ながら、生活のために・・・という女性はいた。
しかし、不本意ながら、自己の利益のために・・・という女性はいなかった。
この百年で、何が変わったのか、そして、何を失ったのか、それを紐解いていく事で、松本人志事件の根本原因が見えてくるのではないだろうか。
では、かつての我が国は、どうであったのか。
松本人志が芸能人である事を鑑みて、七十年ほど前の芸能界を参考に考えてみたい。
先年、亡くなられた漫画家、みなもと太郎氏の回想に、興味深い内容がある。
氏が幼い子供だった頃、映画撮影をしている女優さんを発見した。
しかし、そこには異様な空間が広がっていた。
チンピラのような連中が、女優さんを囲み、変な男が近寄って来ないよう守っていたのだ。
映画会社にとって、看板女優は、大切な社員の一人だ。
だからこそ、しっかりと守られていたのだろう。
では、大部屋女優たちは、どうだったのか。
守られるという事はなかったと思うが、身体を使って仕事を得る事は、ほとんど無かったと思う。
「ほとんど」と記載したのには、理由がある。
女優たちが、自ら進んで肉体関係を持つ事はあったと考えるからだ。
ただし、不本意ながら、そんな関係を持たなければならない事態は、存在していなかった。
なぜなら、現在の芸能界のような、事務所や映画会社が、他社に売り込まなければならない事態が存在していなかったからだ。
現代風に分かりやすく言えば、テレビ局が、それぞれのタレントや役者を雇っているような状況で、当然、別のテレビ局に出演する事はない・・・といった感じだ。
あるとすれば、同じ会社に所属する監督や会社の上役といった連中に対するモノだけだ。
だとしても、監督や上役から要求する事は無かった。
監督も上役も、所詮は、会社に所属する雇われ者だからだ。
「女優は商品、お前たちは丁稚」と言われたとか・・・。
絶大な権限は無いし、発覚すれば、会社を去る事になる。
とにもかくにも、女性は守られていた。
彼女たちが、脱ぐか脱がないかは、彼女たち自身の手にかかっていた。
芸能界に生きる女性だけではない。
他の業種でも、似たような話が有ったと思われる。
かつて、映画評論家の小森和子という女性がいた。
明治生まれの女性だが、若かりし頃、会社員として勤めていた小森氏は、当時、会社の社長を務めていた、菊池寛の前で、全裸になった事がある。
自分を売り込もうとしたのだ。
結局、「服を着なさい。風邪を引くよ。」と、やんわり断られたが・・・。
その菊池寛(直木三十五だったかもしれない)についても、面白いエピソードが有る。
あるとき、数人の仲間と共に、芸者遊びをした。
その後、男女が交互に並ぶ形で、雑魚寝をした。
だが、一切、芸者には触れなかった。
それを自慢げに語っているのだ。
当時の風潮は、このようなモノだった。
芸妓にしても、惚れた男以外に肌を許すのは、芸妓にあるまじき所業という風潮があった。
もし、そんな事をすれば、芸妓仲間から冷たい目で見られ、相手にされなくなる風潮だった。
男も、惚れた以上は、浮気をしてはならないという風潮だった。
江戸時代の吉原でも、そんな風潮に満ちていた。
馴染みの花魁以外に手を出したら、浮気と言われ、店どころか、吉原全体の出入りを禁止された。
他に、愛人というモノも存在したし、妾というモノも存在した。
前述の大部屋女優の例えも、本当に有ったかどうかは別としても、そのような関係性になった以上は、一途に、その相手との関係性を維持するモノであったと思われる。
小津安二郎と原節子なんかも、そんな関係性だったのではないか。
それらの事を踏まえて考えるに、当時の我が国においては、二つのパターンが存在したと思われる。
不本意ながら、生活のために肉体関係を持つ女性と、のし上がる為に、本意で肉体関係を持つ女性だ。
そんな女性たちも、全体で見れば、少数派に過ぎない。
それはさておき、ここで一つの事実に気付く事になる。
それは、松本人志のような男が現れるよりも前に、積極的に服を脱ぐ女性の方が存在していたという事実だ。
そんな女性の存在が、松本人志のような男を生み出していったのではないか。
芸能活動の幅が広がり、様々な形に変わっていく中で、勘違いする男たちが現れたのではないか。
そして、なにより、何の覚悟も無く、服を脱ぐ女性(ジャニーズの場合は、男性になるのだろう)が増えてしまったからではないか。
松本人志の事件は、彼一人の問題というよりも、芸能界(テレビ業界なども含む)全体の問題ではないだろうか。
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