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「海がきこえる」を読んだ

「海がきこえる」は、今は亡き氷室冴子さんの小説だ。(随分若くして亡くなっていたのね。全然知らなかった…)

この小説が世に出たのはもう30年も前になるが、アニメ雑誌である「アニメージュ」に当時連載されていて、挿絵はスタジオジブリの近藤勝也さんが描いていた。
近藤勝也さんは「魔女の宅急便」のキャラクターデザインと作画監督を務めていた方だ。要は当時の「時の人」だった。

挿絵の淡い色使いや、青春の1ページを切り取ったような動き溢れる一コマ一コマが、当時高校生だった私の胸にとっても刺さり。
小説の内容も、目の前にその風景や情景が広がるようですごく良かった。
おまけに、登場人物は自分と同じ高校生〜大学生だったし、進学の為に実家を離れる設定も被っていた。


この物語は、田舎である高知の進学高校に、東京という都会から「武藤 里伽子」という美少女が転入してくるというところから始まる。

正確には、主人公の「杜崎 拓」が高知から東京へ進学し、ちょっと前の高校時代を思い出していくとこからだけど。

ド田舎(里伽子のセリフを借りるなら)に突如現れる、美人で文武両道のクールな東京女子だなんて…そんな設定だけでため息が出ちゃうのよね、田舎に住む少年少女はさ。
そこにシビれるゥあこがれるゥなのだ。


この「海がきこえる」は、スタジオジブリでアニメ化もされた。映画ではなく、テレビのスペシャル番組としての放映だったと思う。

雑誌で連載していた頃から好きで小説も買っていた私は、映像化が分かってめちゃんこ嬉しかった。
アニメーションとして流れた映像は、原作の挿絵通りの色合いと雰囲気で、当時うっとりとしたものさ。

テレビ放映はもちろんビデオに録画して永久保全版にしたが、大学の友人に観せたときに「何?この女?めっちゃムカつく!何がいいか分からん」と、悪口を言われて本気で腹が立った。(言った本人には言わなかったけどネ)


あれから20年近く、一度も小説を読み返していなかったが、実家の本棚を整理している時に本を見つけたら、なんだかすこぶる懐かしくなり。
久しぶりに読んでみる事にした。

今読んだら、当時と感じ方が違うかな?私も里伽子にムカつくかな?と、自分自身に対しても興味が湧いたってのもある。

読んでみたら、予想外の良さと気付きがかなりあった。
映像は何度も観たのでその記憶があったが、小説は結構忘れていた。だいぶと違ったのだ。


アニメでは、とても些細な描写が小説から変更されていた。
些細ではあるのだが、それにより里伽子はただの「ワガママな女」になり、拓はただ顔がいいだけの女に惹かれている「しょーもない男」になっていた。ソウジャナイ感。
小説は違ったのだ。

そもそも、小説の拓はあんまり深く考えていない。里伽子の無茶ぶりにいちいち腹を立ててないし、むしろ楽しんでいる。
拓が唯一、本気で怒ったのは、親友である「松野 豊」が里伽子にこっぴどくフラれたのを後から聞いた時だけだ。

アニメでは、里伽子の元カレにもキレていた。
「何が子どもの事考えてないじゃ。中学生じゃないろう?」「全くくだらんちゃ」
と、怒っていた。
「高知ではいつも堂々としていた」里伽子が、「東京ではヘラヘラと愛想笑いしてガッカリ」だと怒っていた。

ソウジャナイ。

拓が最初に里伽子に惹かれたのは、松野含め他の男子と同じ理由ではないと思う。「格好良かった」からではない。

「幸せそうじゃなかった」からであり、それを周りに感じさせまいと、見栄を張り意地を張る健気な姿に惹かれたんだと思う。
拓は、スーパーウーマンでクールな里伽子ではなく、格好悪くて嫌なところばかりをやたら見ていたからだ。

そして、拓は他人に自分の理想を押し付けたりはしない。東京の元カレ一個人の考え方を、いちいち否定なんてしない。
他人は他人、自分は自分とどこかで線を引き、冷静に傍観している。
そしてすこぶる優しい。本当の優しさって、こういう事なんだろうなって思う。他人が持つ「個性」や「考え方」を素直に受け入れ、それに好感を持ち、楽しんでいる。
これがなかなかできないのが現実だ。

拓は思っていた以上に魅力的な男だった。


そして、離婚した父親に里伽子が東京まで会いにいく辺りもかなり印象が違った。アニメでは尺の都合もあるのだろうが、大事な「事実」が端折られていた。

それは、
「父親は離婚の原因となった不倫相手と間もなく再婚しようとしているが、パパ寄りだった里伽子には母親が内緒にしていた」
という事だ。

これは酷い。「優しい人」がよくやる、一番残酷なやつだ。
「時間が立って、受け入れられる日が来たら」とか「理解できるようになったら」とかいうやつね。

アホか、そんな日なんぞ来んぞ。
こちとら、例えその時ショックを受けようが傷つこうが、いつだって「本当の事」を知りたいんじゃ。

それは、「誠実」な人間であればあるほどそう思うんだと思う。
そう、里伽子はただのワガママで自己チューな女ではなく、常に「誠実」なだけだったんだと思う。

里伽子は、父親のことがどうやら大好きだった。不倫なんて最低な事をしている父親なのに、「ママがバカだと思った」「ワーワー騒ぐからパパも意地になっちゃって」と言っていた。
どんなクソヤロウだろうが、全面的に味方なのだ。里伽子はとてつもない「愛」を持っている。これはすごい。

挙げ句の果てに、どんな(汚い)手を使おうとも資金を集め、たった一人で計画を立て、実行に移す。
「母親に内緒で、大好きな父親に会いに行く」
という事を、ひたすら純粋に実行する。


しかし、残念ながら父親は、里伽子の思いを受け止められるような立派な男ではなかった。

再会した父親は「里伽子はワガママだから」と、拓にやたら言う。どんな思いで娘が会いに来たのかを知ろうともしない。
「ボーイフレンドと二人で東京に来た」「請求書はパパに行くんだから、同じホテルの部屋に泊まる」などと言って、父親に心配して欲しがってるとしか思えない娘の気持ちになんて全く気付かない。

トドメに、娘の大切な思い出の部屋は勝手に模様替えされ、自分を不幸にした女好みの家となってしまっている。

全く、酷い父親だ。


大好きだった東京から勝手に連れ出した母親に反発して、決して高知に馴染もうとしなかった里伽子の思いは、これではどこにも行き場が無い。無さ過ぎて気の毒過ぎる。

「あいつ、かわいそうだな」
と、拓は思う。本当にそうだ。

この時小説では、彼は里伽子に「高知のいい所へたくさん連れて行ってあげよう」と、思い巡らすのだ。
いろんな人間を欺いてまで会いに行った父親に裏切られ、どこにも行き場が無くなってしまった彼女の居場所を作ってあげたいと願うのだ。

もう、それは「愛」だし、とてもいいシーンなのだが、アニメでは描かれていなかった。

まぁ、難しいよね。だって、私の友人が言った様に、里伽子はただの「ワガママな女」に見えるから、拓がそんな事を思ったって
「バカ、甘やかすな!ガツンとゆうたれ!!」
って反感買うだけだよね。

例の、拓が唯一怒った「松野失恋事件」のときだって、「普段、弟にすら手を挙げた事が無かったから力の加減が分からなかった」から里伽子がよろめくほど叩いてしまったのに、その事情はアニメでは描かれていなかった。

思いっきり叩き返した拓に
「ワガママ女によーやった!!ざまぁ!!」
なんて視聴者に思わせるだけのシーンになってしまっていた気がする。

あのとき拓が怒ったのは、「高知弁で告白されたらゾッとする」なんて言ってたって聞いて、松野の事もあるけど、自分の事も一緒だと思っちゃったからじゃないかなぁなんて思ってしまう。
里伽子の残酷なセリフは、高知に馴染んで欲しいと願った拓の優しさすら踏みにじってるもんね。
とはいえ、彼女はそんな気持ちなんて知る由もないんだから、仕方ないんだけどさ。


こんな感想は、10代や20代に読んだ時は全く思わなかった。
酸いも甘いも経験して、環境も年代も変わって読み返してみて気付いた感想だ。

作者がどんな意図で書いたのかは分からないけれど、読み手が物語を手にした途端に、それは「一読者」の物となるんだなぁと思った。
読んだのは「私」という同じ人間なのにさ、こんなにも感じ方が違うとは、驚きよ。


それを言うと、物語序盤の拓が上京してきたばかりのなんでもない描写ですら、感じ方が変わっていたんだよね。

若かったときは
「へ〜、引っ越したら最初に地図を買った方がいいんだ〜」
とかくらいしか思わなかったけど、今はただただ
「子どもを一人暮らしさせるのに、いったいいくらかかんねん…」
って事が気になった。
若かった頃、如何に親の懐事情を気にせずにのほほんと生きていたんかと、情けなくもなった。
これは面白い体験だった。


いつまでも色褪せない物語がある。
そして、時間が経って改めて読み返すと、全く違った感想を持つ、成長した(もしくは老いた)自分がいる。
今現在、手にしているお気に入りの物語は、簡単に手放さずに大切にとっておいて、またいつの日が読んでみたいなと思った。そんないい体験だった。


※タイトルの「海がきこえる」というのも、アニメじゃ「きこえる」描写があまり無いのですが、小説ではしっかり描かれています。
実家では海が身近にあった私は、そこもとても共感できる部分で大好きだったのだ。
ま、我が家は「きこえる」ではなく「みえる」だったけどね。


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