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「悲しみ」は何の為にあるのか?

いや~、良い映画でした。

個人的ディズニーの3大映画は、

・モンスターズインク

・ルカ

そして、この映画、

・インサイドヘッド

ですね。




「悲しみ」をどう描くか、それが問題だ


やっぱり、この映画のテーマって「悲しみ」だと思うんですよ。

主人公のライリーが生まれてから頭の中で一番最初に出てくるのが「喜び」で、まぁ、誰もが持ち続けたいと望む感情ですよね。死ぬまでずっとその感情でいたいと思うものです。

で、映画で言う33秒後に突然現れるのが「悲しみ」。映画の序盤で「喜び」はこの「悲しみ」を凄く疎ってるんですよね。「主人公レイリーと私の仲を邪魔しやがって~😠」みたいな感じで。もちろん、「悲しみ」が主である思い出の中でレイリーは、泣き喚いたり、嫌なことが起きたりしてる訳なので、「喜び」としては、「なんで、コイツいんねん⁉」みたいな感じに思いますよね。

その後に出てくる「ビビり」、「ムカムカ」、「怒り」は、レイリーの命を守るって役割を与えられてるから存在意義があって、「喜び」もチームのメンバーとして認めてる感じ。

初期設定としてこんな感じなので、「じゃぁ、なんで『悲しみ』はいるの?レイリーを不幸にするだけじゃん!そんなのいらんやん!排除して、『喜び』だけの人生の方がレイリーには良いだろ!」って個人的には思っていたので、この映画の結末でどういう”答え”が出てくるか非常に楽しみでした。


「悲しみ」の役割は、『相手に寄り添って』、『相手の活力を湧き出させる』こと!?


参考になりそうなシーンがコチラ☟

道案内をしてくれていた「ビンボン」の大切な乗り物が、谷底深くまで落とされてしまった場面。



レイリーとの思い出がいっぱい詰まった乗り物を失い、意気消沈するビンボン。ただ、「喜び」は早く戻りたいという一心から、帰り道を知っているビンボンを説得すべく、「喜び」らしいポジティブな励ましを披露。


くすぐったり


変な顔をしたり


それでも結果は実らず、ビンボンは悲しいまま。

思い返せば、この方の指摘の通り、無理して「喜び」が取り繕うとするのが良くないんですよね。


引越しのトラブルで荷物が届かないってなった時にカナシミが「ここは私が…」ってカナシミボタンを押そうとした時にヨロコビが「ちょっと待って」ってカナシミを制して「来るときにピザ屋があったね!」って話をすり替えるんですね、ママ達の気持ちをほぐす為なんだけど。たぶんここからなんだよね。つまり!ヨロコビがカナシミを押さえ込んだ時からちょっとずつおかしくなるんですね。

#8『インサイド・ヘッド』


そして、どうしようもなくなった「喜び」に代わって、「悲しみ」が登場。

「悲しみ」はビンボンの思い出話を聞き、”悲しいね”とビンボンの感情に寄り添う。

するとビンボンが泣き出し、


その後は気持ちが吹っ切れて、道案内を続けることに。



「悲しみ」の存在意義が分かるなるへそな解説がコチラ👇


共存共栄を生み出した『悲しみ』


もうひとつ、大きな役割があります。

人類は、周囲の人たちをお互いに守ることで繁栄してきました。

弱肉強食のジャングルで1人にされたら、たちまち肉食動物の餌食になってしまいます。

5人10人と集まってそれぞれ役割分担をすれば、敵に襲われずに食料を調達できます。

周囲の人たちを守る、とりわけ自分より弱い人を守ることで人類は発展してきました。

弱肉強食よりも共存共栄を選んだのです。

自分さえ良ければではなく、みんなが良ければ自分にも良い、を実践してきました。

『1人ではできないことも、協力し合えばどんなこともできる』と、経験をしながら現在の社会を生み出してきました。

自分一人では、家も車も道路もつくることはできません。

みんなが少しずつ、自分のできる範囲のことを提供してこの社会を作り出しました。

自分以外の誰かの悲しみやつらい状況を解消しようとして。

悲しみにくれている人、つらい状況の人、不幸に見舞わた人、これは弱い立場の人といえます。

こんな弱い立場の人を理解できるのは、自分自身も悲しみを経験した人です。

悲しみもこの人類の発展に大きく関係してきていたのです。

「なぜカナシミは必要なの?」インサイド・ヘッドを観たときに考えたこと(太字はコチラでつけました。)


「喜び」自身も、「悲しみ」がいるからこその自分であることを知る


「喜び」が喜んでいる思い出の”玉”を見ていて気付いたのは、レイリーが喜ぶ前に、レイリーには悲しんでいた時があった事。喜んでいる思い出の玉は、『喜び』だけで形成されているのではなく、その思い出の中には『悲しみ』も含まれていたこと。

小さい頃は「楽しいー!」、「悲しいー!」、「嫌だー!」、「怖いー!」、「ムカつく―!」みたいな、1個の感情がドーンって出て、それが全てみたいな感じなのかなと思った。

で、年齢を重ねていく中で、それらの感情が単調なわけではなく、色々な感情が混ざり合って出来ていることを認識していくのであろう。

そういうことを知った「喜び」が、最後の方で「悲しみ」と手を取り合う姿は感動しましたね。

今までワンマンプレーだった「喜び」は、『悲しみがあるから喜びもある』ことを知って一つ賢くなったと思います。

主人公のレイリーが悲しんでいる時に、「レイリーはあなたを必要としている」と話し、今まで邪険に扱っていた「悲しみ」にコントロールを任せたのも、「喜び」が「悲しみ」の存在意義を認めた瞬間だなと思いました。


Riley brauchst dich.
レイリーはあなたを必要としてるわ。


コントロールを任された「悲しみ」は、ちゃんとレイリーを悲しくさせ、両親に自分の悲しい思いを伝えることに成功。



レイリーは無事に両親に受け入れられ、それを見た「喜び」が身を引こうとした時に、「悲しみ」が「喜び」の手を取ったことで、




悲しかった記憶の中に、「両親に受け入れてもらえた」という喜びの記憶が入ることに。


黄色(喜び)と青色(悲しみ)の思い出の玉


以後、これまで単色しかなかった思い出の玉だが、様々な感情が混じってカラフルな思い出の玉が出てくるようになった。



「レイリー、成長したな~!」と見ていて、嬉しくなりましたね。

やっぱり、「彩り」は綺麗で良いな~と思います。



ミスチルの「彩り」しかり、ドイツの絵本「Der Besuch」しかり、



「彩りのあるモノ」が個人的には大好きなんですよね。


インサイドヘッドを見て思い出したのは、「かぐや姫の物語」の最後


「かぐや姫の物語」も良い映画ですよね。かぐや姫が疾走するシーンは画力が凄すぎます。

で、この映画に対して個人的には、最後の場面のお迎えのシーンが引っかかっていました。かぐや姫はお迎えに来た一人から透明な布をかぶせられると、感情を失ったかのように無表情になって、月に帰っていくのです。

なんか記憶に残ってるのは、月の住人達って、感情がないことを「良し」とする価値観の人達だったという説明です。(あるいは、「無欲」が良しだったかもしれないです。)

月の人達は、地球にいる人間達が欲望のままに生きている姿(富や名声を求めたり、より良いものを求めたりなど)を嫌っていて、だからこそ「罰」として、かぐや姫を欲望ばかりの汚らわしい世界である地球に送ったという流れ。

月の人達は、「そういう愚かな欲望に地球人は支配されているから、その代償として悲しみとか苦しみを人生で感じてしまうんだ。その負の感情を感じなくするには、欲を捨てれば良いじゃん。」っていう思考回路で、自身の持つ欲を消し去ったって聞いたことがあるような…

まぁ、「欲」の話になると全く話題が変わってしまうのであれですが、言うなれば、無欲になった月の人達は感情の起伏無く穏やかに暮らしているということになっているのです。

個人的には、「それってどうなのかな?」と、かぐや姫の物語を見終わった後に疑問を持っていました。「彩り」が好きな自分から言わせてもらうと、そんな単調な人生ってどうなのか?

喜怒哀楽のない人生は果たして幸せなのかと。動物は喜怒哀楽があるこそ動物たり得るのではないか。喜怒哀楽が無いのはただのロボットではないかと。

月の人達は喜怒哀楽に支配されている地球人を見くびっているようだが、個人的には、「かしこぶって感情を無くしたつもりだろうが、自ら感情の範囲を狭めてるだけの話だし、1回きりの人生を何事も感じずに生きるのがそんなに良い事か?」と思ってしまう。

人間であれば感情は必要だと思っているし、特に、「子育て」に関わるのであれば、感情の露出は必須だと思う。

この実験を見たことがあったので、ちゃんと感情を伝えることは重要だなと思ってるし、だからこそ、子ども達の前ではしっかりと感情を出すようにしている。



こういうのが、ロボットが先生になれない理由の一つではないかなと思う。人の表情は数多くの表情筋が複雑に組み合わさることによって出来ているらしいので、AIを持ってしてもまだまだ真似できないらしい。

あと、人間っていうのは「計算通りにいかない」生き物であるから、ロボットが完全に人間の代わりをすることは出来ないであろう。単純作業とかの「AをBすればCになる」みたいなのが決まってる場合は、ロボットでも代用可能であろうが、世の中の大部分はそうじゃない。「子育て」が最たる例である。

人間は意思決定の面において、自分で感知できない「無意識」の部分や、誰にも止めることが出来ない「好奇心」や、分かっているけどやめられない「非合理性」の影響を受けているので、ロボットにはその人間の”機微”を理解することは出来ないと思う。

そもそも論、自分で意思決定できる人間と、プログラムされるのを待つロボットでは性質が全然違う。自分で学習する自律型のロボット(AI)もいるが、因果関係論の中で生きているロボットが、因果関係論の外でも生きられる人間の真似をするのは、難しいことだと思う。


おまけ①:面白かった脳内


誰がリーダーか?


インサイドヘッド内で描かれる大人の女性と男性の頭の中の違いが面白かった。個人的には、誰がリーダーなのかに注目していた。


女性の脳内は「悲しみ」が中央に座っている☟


男性は「怒り」が真ん中に座っている☟


「悲しみ」の持つ力が”共感性”であることから、女性の脳内で「悲しみ」がリーダーをしていることは至極当然だなと思えるし、男性が「怒り」っていうのも想像が容易である。

個人的な脳内を考えてみると、「ビビり」がリーダーのような気がする。

席順で言うと左から、

「怒り」、「悲しみ」、「ビビり」、「喜び」、「ムカムカ」

って感じ。笑

基本的にはビビっているので、準備は入念にしたいタイプだし、ビビり故に「もうどうにでもなれ!」と思って突発的にやってしまうこともある。

「怒り」と「ムカムカ」は普段はそんなに感じないので端っこにいる感じ。

で、空いたところに「悲しみ」と「喜び」が座った感じ。


性格の島


映画の中では、重要な思い出によって作られた”島”が登場し、映画の説明を借りると、「その島がその人をその人らしくしている」という。

主人公であるレイリーの島は、

・初めてのゴールを褒められた→『アイスホッケー』の島
・親と一緒にふざけて楽しむ→『おどける』の島
・友達と仲良く遊ぶ→『友情』の島
・皿を割ったことを正直に言う→『誠実』の島
・一番身近な存在→『家族』の島

であった。まぁ、ストーリーの関係上で選ばれたという感じだなと思う。

個人的に何だろうと思った時に、

・幼稚園で「キーくん」というあだ名のおかげで他人と関われた→『あだ名』の島
・小1の時に当時の副担任の方が、水泳の顔つけや縄跳びの練習を毎回昼休みにしてくれた→『努力』の島
・小6の時のH先生→『情熱を持って前進』の島
・中学の時に駅伝メンバーに選ばれ続けた→『得意を活かす』の島
・高校の時のスクールカースト→『同調圧力嫌悪』の島
・大学の時に自分の好奇心に従って活動し続けた→『森の幼稚園』の島
・社会人の時に自分の代わりなんていくらでもいることを知る→『1度きりの人生を好きに生きる』の島

かなと思った。笑

おまけ②:悲しみに関するの名言


悲しみは慰めによって報いられる。



『アントニーとクレオパトラ』ウィリアム・シェイクスピア

悲しみ、苦しみは人生の花だ。



『悪妻論』坂口安吾

悲しみと苦痛は、やがて「人のために尽くす心」という美しい花を咲かせる土壌だと考えましょう。

ヘレン・ケラー

悲しみがなければよろこびはない。不幸にならなければ幸福はわからない。

やなせたかし

悲しみの道、しかもその道だけが、悲しみを知らざる国に通じている。

ウィリアム・クーパー

喜びと悲しみは人間の定めなのだ。このことを正しく知ったとき、私たちはこの世を無事に進んでいける。



『無垢の予示』ウィリアム・ブレイク

私はいつも「悲しみの少ない者ほどはでに泣く」という名句を思い出す。



『エセー』ミシェル・ド・モンテーニュ

愛情に満ちあふれた心には、悲しみもまた多いものである。



『小さな英雄』フョードル・ドストエフスキー

私は豚となって楽しむより、人となって悲しみたい。



『卓談』ソクラテス

人の中心は「情」であって、情の根底は「人の心の悲しみを自分のからだの痛みのごとく感じる心」すなわち観音大悲の心である。

岡潔

優れた本とは、読み終えた後に実際に起きたことのような錯覚に陥るもの。良い気分や悪い気分、後悔や悲しみを持てるのだ。もしあなたがそれを人々に与えることができるなら、作家になれるだろう。

アーネスト・ヘミングウェイ

悲しいから涙を流すのではない。相手を責め、同情や注目を引くために泣いているのだ。

アルフレッド・アドラー

自分自身の体験や子ども達と接した経験から、個人的にはこのアドラーの意見に心底共感するので、泣いてるからといって無条件に優しくしたくないなと思ってしまう。その涙がどこから来たものなのかをちゃんと自分なりに考えてから対処したいなと思う。

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