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グッバイ消費者。ハロー研究者。

この1〜2年で顕著になったと思うこと。

それは、事業規模は小さくても、高い(深い)専門性を持ち、有言実行なプレーヤーがその存在感を高めていること。

既存の仕組みに挑む、みたいなデカいことを言うだけで実態が伴わないプラットフォーマーは、燃費が悪いことが(元から分かっていたことだけど)明らかになってきた。
一方、既存の仕組みに対して心の中で疑問を投げかけつつも、自らの哲学に基づいて、明るい未来に向かって、小さく実験を続けていくような存在が増えている。

もう一度言おう。
「小さい、実験的なプレーヤーが増えている」のだ。

言い方を変えれば、ユニコーンが少ない、破壊的なイノベーションが起こらない、という経済評論家やお役所が語るような状況は、これからもしばらく続く。マクロ的には日本の経済縮小を止めることも、すぐにはできないだろう。しかし、それが単なる衰退だとは思わないのだ。

小さく新しいものが増え、デカく古いものは風化するように徐々に削られ、新陳代謝していく。ネズミが増えて恐竜が減るように。そういう時代もあるのだ。多様性が増すという意味では、進化とも言えるのではないか。

お金の世界で言えば、すぐ目につく木や果実に投資してもそれ以上は大して育たない。小さいタネを見つけて植えるところからやるしかない。ツタやクズのような、細いけど、根をしっかり張り巡らせ、ツル性でどんな場所や相手の上でも張っていくような生存能力の高いタネを見つけること。

こういう論調で書くとすぐ、「これからは個人の時代だ」とか「小さく始めよう」という話にまとめられてしまいがちだ。

しかし、テクノロジーによる民主化や、小さな個人を支えるという意味では、ずいぶん前からそうだろう。クラウド○○やシェアリング○○や、CtoCやらが出てきたこともそうだし、インターネットもブロックチェーンですら「民主化」や「分散化」を支えるために利用されてきた技術だ。

個人の時代はずいぶん進んだ。しかし、そうした「個人の声」が強まった社会の一般消費者主導、大衆迎合の時代はもう終しまい、と思ってる。個人が発信や影響力を持てるようなSNSは普及したけれど、普通(つまり無価値)なものとそのコピー、大衆迎合的な言動、感情の投げつけばかりが溢れ、モノやコトがフローで消費されていくことへの嫌悪や疲弊もまた強まっている。

そのフロー消費の速さも伴い、社会の不確実性が上がっている、読めない時代になった、と言われ始めた。それは単に、溢れた情報に溺れる一方で、自らの内に選択基準を持たない(流れを読みたがり、身を任せようとする)人達の弁だ。

裏を返せば、「確かな、拠り所となる人や場所」が、まるで誘蛾灯のように、そうした"不確かな"人達を集めていくことになる。ほら、読めるではないか。

確かな、拠り所となる人や場所。

それは自我が確かで、根が生えた人たち。つまり、研究者・生産者・職人など、探究的で創造的な生き方をしている人の時代になる。

消費者主権から、生産者主権や研究者主権へ。

自らの深い哲学や信念に基づき、研究・実験を通じて提示する情報(エビデンス)と共に、フィジカルに手足を動かし、タンジブルな物事を作る人たち。

こうした哲学・研究・実験に自らのお金や時間を投下する人たちは、「自分たちだけのハード」も必要になる。
コンパクトなラボ(のような場)を持ち、そこに、外部に発信している情報だけでは全容が掴めないほどの知をストックしていく。その場・空間自体が「知を生む、人を呼び込む仕組み」となり、そこから湧き出る他にはないプロダクトやサービスが新しい価値を持つ。

この点、くれぐれも注意喚起したいことは、こういう局面では「似て非なるもの」も増える、という点だ。
「作りたいものを作る」とドヤり、クリエイティブやアートを絡めてエモいストーリーを語り始めたら「似て非なるもの」のフラグだ。大衆迎合的で、コピー的で、ファンにモテたいものは、今まで以上に早く消費され、枯れていく。つまるところ、消費者的な思想で作られ、消費者が消費する"カルチャーっぽいもの"は、やはり消費財の域を出ることはない。ストック性資産である「カルチャー」にはならないのだ。

一方、研究者気質の人は、大衆の目やウケは関係ない。
発信は、研究成果の適時発表か、客観的な批評や反論を集める目的か、社会実験と観察が目的か、はたまた共同研究者や協力者を探すためのプロセスとしてやっている、くらいがちょうど良い。そうした自分自身の深い哲学や問いの上に生き、専門的な研究開発を続ける人が作るものが、自然と「本質的に新しく」なる。新しさには(特許化できるか、またすべきかはさておき)資産性があり、簡単には消費されない。

主権を失いつつある消費者のうち、作り手と対話できるリテラシーを持ち、行く、会う、(リアルで、比較的クローズドなコミュニティに)参加する、スポンサリングするなどを"許された"人だけが、その価値を得ることができる。

それはつまり、知的な関係性を背景とした格差が深まり、それが経済的な格差を深めていく、という意味でもある。

こうした新しい資産を生み出す人が中心で、それを理解し協力する人が恩恵を得る世の中。そのぶん、ニセモノやムダな消費が減る世の中。

それは「豊かな社会になっていく」とも言える。

しかし同時に、作り手になるにしろ、参加者や協力者になるにしろ、その豊かさを享受したければ「学ばなければならない、学びに投資しなければならない」し、「学ばないまま流されている人が、更に生きにくい社会になる」ということも示しているのだ。

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