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長編小説「話の途中」

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2024年8月の記事一覧

黒いライム

 黒い机の左端にライムが一つ置いてある。眠る前に椅子に腰掛けて、そのライムを握るのが習慣になっていた。今では爪で叩くとコツコツと音がするほどの堅さを得て、弾力を失い、色は緑から茶を経て、黒に急いでいる。目を閉じて形を味わうように指を全体に這わしていく。車が走り去る音さえも、寄せては返す波の音のように胸に迫る深夜。商店街から響いてくる、酔いに我を失った女の甲高い声や男の怒鳴り声さえも、人類が長い夜を耐え忍んできた記憶を宿す慟哭となって胸に去来する。まぶたの奥で空っぽに終わった一

ダブルデート

 当日は、天気予報を裏切って雨が降っていた。窓と屋根に降り注ぐ雨の音で私は目覚めて、ベッドの上で身体を起こした。一瞬、寝過ごして夜になってしまったかと思うほど部屋は暗かった。テレビをつけて、朝の八時半であることを確認する。台所で水を飲み、煙草に火を点けてから、陽子に電話をかけた。受話器を耳に押し当てたまま、カーテンを開けて、水滴でつぶつぶになった窓ガラス越しに外を眺めた。薄暗い雨の朝を、傘が並んで眼下の路地を進んでいくのが見えた。水滴がつーっと目の前のガラスを走って外の世界を

テーブルの上と下

 三人でカフェバーに入った。壁に設置してある、大きな鐘付きの時計がオレンジ色の照明を受けて、壮大な歴史を匂わせるという趣の店だった。カウンターには五人ほどスーツを着た男達が、テーブル席には一組のカップルが座っていた。BGMはレッド・ベリーだった。私達は奥のテーブル席に座った。アンティークを模した木製の四人掛けのテーブルだった。真由が一番奥で、隣りに先輩の男、私は真由の向かいに座った。  真由がコートを脱ぐと、Vネックの緑のセーターから白い首筋が真っ直ぐ伸びて、薄暗いテーブルの

歩道橋と横断歩道

 真由とその連れの男に夕食をおごるはめになったのは、十二月の半ばの土曜日だった。HEPFIVEの前、大きなツリーが飾ってあるのを囲む柵の上に私は腰掛けていた。周りには若い男女が腰掛けて、待ち人を期待顔や不安顔で群集の中に探している。見知らぬ誰かが視線を与えてくれるのを待つ為に放たれるような視線、ミニスカートの女の子達の上目遣い、悪顔をして突っ張って見せている男達、最新の髪形に落ち着きなく触れる手、紙袋や携帯電話を握り締める手。寒さやチークによる頬の赤色。ファッション誌に忠実な

十七歳

 八月の終わり頃の深夜、誰かが部屋の窓に小石をぶつけて、夢の続きを絶った。私は寝汗で気持ち悪い枕から頭を起こし、カーテンの向こうの窓に打ちつけるノックの音に耳をすませた。目を閉じて広がる世界が目の前を未だ漂い、意味で捉えられないイメージの集合が私を捉えていた。私は氷河に覆われた街を走って逃げていた。鋭い氷が空から降っている。誰もいなかった。倒壊をまぬがれているビルに駆け込み、階段を上がる。何としても大便をしなければならなかった。焦りに足がもつれた。一番高い窓から尻を突き出して

グッド・フレンド2

 ハルミツに出会うまでの日常はおおよそ決まりきっていた。朝食もおろそかに電車に駆け込み、右向け右という態度に徹する八時間を会社で過ごした後、逃げるように電車に乗り込み、アパートで夕食を作って食べる。三年繰り返して新鮮味を欠いた、欠くべからざるリズム。  金曜日だけはよっぽどのことがなければ一時間は早く起きて、駅前のカフェでトーストとハムエッグを食べて、熱いコーヒーを二杯飲んだ。チェーホフの短篇小説を読み、煙草を吸い、窓の外を駅へと急ぐ人々を他人事のように眺める。時には早起きし

グッド・フレンド

 東通りのバーに入った。身体が温まってから、泡が消えたグラスビールを一気に飲み、ジャックダニエルをストレートで三杯か四杯ほど飲んだのまでははっきり覚えている。バーというよりはそう見せかけたキャバクラという趣の店で、濡れた唇をした若い女達がカウンターの向こうから、絶え間なくおしゃべりをしかけてきて、やたらとおかわりを勧めた。彼女達の接客に私は気疲れし、深酒と孤独を深めていった。今日という日のお楽しみ、先延ばしにすることで祝福に満ちていた行き先が果てようとしていた。カウンターの上

愛のあるエッチ

 酔いが醒めるのを待った。目の前の電柱が、北東の方角に少し傾いていた。その角度を目で推測し、無数の電線の行方を追う自分がしばらく続いた。歩行を妨げる酔いの効果は次第に薄れ、箸が転がっても可笑しい、幼い頃の心持ちが戻ってくるのを感じて私は立ち上がり、足を進めていった。  HEPFIVEの前で左折し、次の十字で右折、ケンタッキーを右に横断歩道を渡り、アーケードを真っ直ぐ進む。松屋を過ぎて横断歩道を渡り、右折して直進。金色のかんざしを黒髪に挿した女の巨大な顔が出迎えた。白い顔に黒目

カフェと映画とバー

 太陽が沈み、街には明かりが灯っていた。すっかり広がった薄闇に身を馴染ませ、コートの襟を立てて繁華街まで歩いた。路上は移動する人々で混み合い、頭上は曇り空で月は見当たらなかった。ビルの窓のいくつかに四角い光が灯り、点在して模様を描いているのが綺麗だった。  三番街のカフェに入ってビールとチーズグラタンをテーブルの上に並べて、煙草を吸った。窓際の席から外を行き交う人々を眺め、手の平を口の少し前にかざして、息を吹きかけて口臭を何度か確かめた。学生の集団が獲物を得た後の満足顔でブラ

食堂と話の聴き方

 観覧車を降りると地下街を通ってマルビルに行った。タワーレコードで音楽を試聴した後、イタリア料理の店に入ってパスタとビールを注文した。三時を過ぎていたが、アパートにはまだ帰りたくなかった。チーズで粘ついたトマトパスタを食べて、ビールを飲み干し、エスプレッソを頼んだ。朝に剃り損ねた髭を手で擦りながら、思いもしなかった自分の現在地とそれまでの過程を眺めた。過去がテーブルの上で現在に重なり、未来を侵食していく。煙草を吸い、エスプレッソをゆっくり飲んだ。  若いスーツを着た女がひとり

観覧車とおっぱいねーちゃん

 ATMで五万円をおろしてから電車に乗った。JR大阪駅で下車し、ヨドバシカメラの一階にあるオープンカフェでクロワッサンを食べ、熱いエスプレッソを飲んだ。金曜日の昼過ぎ、風は冷たくも陽射しは暖かかった。目の前を人々が行き交い、歩道の向こうではひっきりなしに車が走っている。視線を上げると歩道橋の向こうにHEPFIVEの赤い観覧車の側面が一本の棒のように空へ向けて伸びているのが見える。私はそれを眺め、人々の表情を観察し、時に観察されながら煙草を二本吸った。ハルミツのスケッチを取り出

心のこもった、どうでもいい話

「マユちゃん」とハルミツは言った。 「何してんのよ、これ」とマユは言って、笑っている。 「こいつが破ったんだ」ハルミツが私を指さす。 「バカじゃないの」とマユは言って私を見た。気持ちの良い声だった。まるで褒め言葉か、そうでなくとも素直な言葉として邪気なく口にしたことが不思議と伝わってくる。彼女が音もなく笑い、私も笑った。可笑しいからではなく、人との交感が為せる喜びが溢れ出したという感じだ。 「ハルミツの友達になったばかりの田中です。よろしく」と私は言った。「全然、友達じゃない

十九歳

「何をスケッチブックに描くかはどうやって決めてるの?」 「別に」と彼は言った。 「どうして僕を描いたりしたんだよ?」 「その時は描きたかったから」  いかにも面倒くさそうな態度は維持しながらも、彼が自身のスケッチについて語りたい気持ちは抑え難く、それに耳を傾ける者が少ないことも私はよく知っていた。  高校時代からの親友で画家を目指していた男と私はいわゆる青春時代を供に過ごした。熱く夢を語りあい、自らをこの世で重要な存在であると知らしめたい、愚かで、ナイーブな、机上の空論にだけ

初対面の挨拶

 先に彼が電車を降り、私が後に続いた。彼は車両を出てすぐの混雑した階段ではなく、ホームの向こう端の階段に向けて歩いていく。私は彼のジャンバーが擦れる音が聞こえる距離を保ちながら、彼の猫背を追っていく。九時十分を過ぎていた。  階段まであと少し、オレンジ色のベンチが並んでいるところに差し掛かった時、彼は突然こちらを振り向く。私は立ち止まり、その一瞬、彼との距離を測っている。警告音が鳴り、乗客を乗せた電車のドアが閉まった時、私は右手を彼に向けて差し出し、空中で左右に振る。 「危な