歩道橋と横断歩道
真由とその連れの男に夕食をおごるはめになったのは、十二月の半ばの土曜日だった。HEPFIVEの前、大きなツリーが飾ってあるのを囲む柵の上に私は腰掛けていた。周りには若い男女が腰掛けて、待ち人を期待顔や不安顔で群集の中に探している。見知らぬ誰かが視線を与えてくれるのを待つ為に放たれるような視線、ミニスカートの女の子達の上目遣い、悪顔をして突っ張って見せている男達、最新の髪形に落ち着きなく触れる手、紙袋や携帯電話を握り締める手。寒さやチークによる頬の赤色。ファッション誌に忠実な自分自身に恋をした足取り。待ち人と果たされた約束を喜び合う笑顔が去っていき、新たな孤独が柵の上に加わる。暇をしている二人組の女の子をかぎつけて、同じ境遇の男達が刹那的な求愛をしかけては多くが決裂し、時に成立して消えていく。
三十分ほど、大事な誰かをそこで待ち続けているかのように、横断歩道を渡ってこちらに向かってくる群集の中に視線を走らせていた。土管に顔を隠した初恋の少女の面影や母の顔を探している自分に気が付き、含み笑いが出ると横に腰掛けていた女が怪訝な顔で私を見る。左手前には献血車が歩道に乗り上げていて、蛍光ジャンバーを着た女が、血が足りないと何度も言っていた。
JRと阪急を繋ぐ歩道橋に向かう途中、「クリスマス戦争勃発」と書いてある巨大なポスターが貼ってあるのを立ち止まって眺めた。色黒で筋肉質な体をしたパンツ一丁の男達が血みどろの顔面を押さえ付け合っていた。クリスマスにはこういうのを見に行くのもいいかもしれないな、と私は思った。阪急百貨店のショーウインドの横には「サンタクロースの家」なる、仮設小屋が設置されて、髭が伸びたホームレスがその前に陣取っていた。仙ちゃんではなかった。いつもの場所にも彼はいなかった。
歩道橋の上で手すりに身体を預けて、横断歩道を行き交う人々を見下ろした。それぞれの思惑や価値観や感情が、緑色の光に包まれて足を踏み出す帽子の男をシグナルに、一斉に中央に向かって押し寄せ、すれ違っていく。個別性を約束する細々とした大事なもの、絶えることのない誤解や愛、孤独や祈りを肩にのせた人々が溶け合い、申し合わせたように足を踏み鳴らし、大地を愛撫している。太陽は没しかけて、オレンジ色の光を西の空に掲げている。いくつか紫色の雲を挟んで、澄み切った水色の空が我々の頭上まで続いていた。
身体の冷えに耐え切れなくなるまでそこで過ごした後、歩道橋を下り、横断歩道を歩いた。下水と小便と排気ガスの臭いが立ち込めていた。後ろからスーツを着た男が私に身体をぶつけた。男は眉間に皺を寄せて足早に追い越していった。きつすぎる香水と胸の谷間が通り過ぎていき、くたびれた男達の脂汗と生きるためにせよ死んだ目が押し寄せてくる。首を傾けて、歩道橋を見上げた。一羽のカラスが手すりを足でがっちりとつかみ、我々を見下ろしていた。彼の身体が一瞬沈み込み、手すりを足で蹴って飛び上がる。黒い翼が広がり、空に身体が浮いている。翼を素早く振って、段階的に高度を上げながら彼は太陽に向って飛んでいった。
横断歩道を渡りきると人込みの中に立ち尽くして、太陽に向かう黒い翼を目で追った。言葉にできない何かを身体に感じて、私は全身に注意を向けた。昼飯を抜いたせいもあってか腹がぎゅうと鳴って身体感覚が終わった後、三十代後半くらいの坊主頭の男が手軽な獲物を見つけたとでもいうように一直線に私へ向かってきた。こちらの警戒心を解くためか、うすら笑いを浮かべていて不気味だった。
「手相を見せてくれませんか?」と男は言った。
「いくら払います?」と私は言った。
男は答えずに、私の右手を両手で掴んで、顔を近づけた。
「転機ですね。あなたは今、悩んでいますね」
「いえ、悩みはありません」と私は言った。
カラスの姿が見えなくなった。太陽はひとかけらの光を投げて雲の縁を照らしているだけだった。
「あなたは私を疑っていますね」と男は言って笑った。
「疑っているのはあなたのほうかもしれませんよ」と私は言った。
男はこらえきれないという感じを演出するような、乾いた笑い声を出した。
「あなたは、自信がない。いつも人の評価が気になる。強がっていながら弱さを抱えている。今、あなたは転機にいる。気になっていることがありますね。いかがですか?あたりすぎて怒りが湧いてきていませんか?」
私は話を聴いていない人がよくするように、相槌を何度も打った。
「全て、何もかもその通りです」と私はゆっくり言った。「お礼にあなたの手相を見ましょうか。でも手はいりません。その大人ニキビができた鼻の頭で充分です。あなたは迷っている。自分ではそれに気付いていない。手相を始める男はまず第一に女にもてない。もてないから小手先を始めるといっていいでしょう。あなたには自分の未来を占えない。このあとあなたがどんな気持ちで雑踏に立ち、次の獲物を待ち構えることになるか分かりますか?あなたは金が欲しい。その金で薄型テレビなんかを買い、暴飲暴食をし、女を買うでしょう。有名にもなりたいし、楽をしたいと願っているでしょう。で、最後には白い骨となって大地に横たわるでしょう。ここからは有料になります。いますぐ救いのシナリオを得ないと大変なことになります。あなたは転機の渦の中にいる。足を出してくれますか。爪が伸びきって臭う、水虫を飼っていて誰も愛撫したがらない偏平足、外反母趾に生えたひょろ長く黒々した毛も大事な占いの要素です。足を洗いなさい、こんなことからは、とあなたの祖先が僕に憑依していっています。信じるかどうかはあなた次第です、なむあみだぶつ。いずれわかるでしょう。空しく寂しい心を埋められない自分に、アーメン」
男は頭のおかしい奴に何を言っても仕方がないという風に、引きつった頬を従えて首を左右に振り、あからさまな侮蔑の表情で睨みつけて見せて、そのくせ逃げるように離れていった。
JR大阪駅を過ぎて、ビジネスビルの立ち並ぶ方へ私は歩いた。どこまでも歩いていこうと思った。頬が冷えて硬くなり、コートの下で脇に汗が流れる。十五分ほどで気持ちが萎えて、通りの向こうに見えたオレンジ色の看板をしている牛丼屋をゴールにした。
店内は牛丼屋にしては綺麗で、閑散としていて、カウンターの他にテーブル席もあった。私は牛丼の並を注文して熱いお茶を飲んだ。湯呑みを掴んで両手を温めて、その手で冷え切った頬を温めた。店長と思しき中肉中背の男がレジで書類を睨みつけていて、それを中断させた客に彼は即座に接客声で対応し、急に声色を変えて若い女の店員に指示を出す。権力者であることを示す、低くいたずらに攻撃的な声だった。女の店員はマニュアル言葉と供に牛丼を私の前に置いた。彼女は背が高く、黒髪がよく似合っていた。うつむきがちで覇気はなかった。彼女の心が冷え切って固まっているのを眺めながら、牛丼を食べた。
会計をする時、レジには店長が立っていた。ご馳走様です、と私が言うと彼は高い声で、ありがとうございます、と言う。言った同じ口で一秒後には、がらりと声を低めて、「おい、レジ。やっといて」と女の店員に言い放ち、厨房の方へ歩いていった。私は彼女に千円札を渡し、おつりを待つ間に声をかけた。
「いやな店長だね」と私は小さい声で言った。
言った瞬間、驚きに打たれたという感じで彼女の目が私を見た。彼女の顔に信じがたいほどの性急さで光が射しこみ、人を惹きつけずにはおかない笑顔が広がった。彼女本来の魅力が顔に収まりきらずに、周囲を包み込むかのようだ。別人のような美しさに出会って、私は目を伏せて、次いで横目で店長の方を確認した。彼女は生気が宿った瞳で私を見て、頷き、何かを口に出そうとして、出せずに店長の方をちらりと見た。
「あんな言い方しなくてもいいのにね」私は彼女だけに聞こえるように声をひそめた。
彼女が頷き、私は微笑んだ。彼女が私の手を優しく両手で包み、ついでにおつりを渡してきた。去るしかない私のコートや足元に、彼女は視線を走らせていた。
店を出て、五メートルほど歩いた時、彼女の声が背後から聞こえた。
「お客様、お忘れ物です」彼女は自動ドアから出てすぐのところで言って、私の方に駆けて来た。小さな紙切れを私の手に掴ませて、メールでも電話でもいつでも連絡ください、とだけ言うと彼女は素早く踵を返し、店に走っていった。
七時を過ぎていた。マルビル一階のスターバックスでコーヒーを買い、外のベンチに腰掛けて紙切れを飽きることなく眺めた。予定のない土曜日に加わった彩りが愛しかった。
「なに、ニヤニヤしてるの?きもちわるー」と女の声が聞こえた。
私のスニーカーの前に小さなリボンがついている黒色のブーツがあった。美しい曲線を包む青いタイツが続き、柔らかい素材の黒色のミニスカートが風に揺れている。上方では白色の短いダッフルコートから見知った顔が突き出して笑っていた。
「真由か。ひさしぶり」と私は言った。
「なに、呼び捨てにしてるのよう」と真由は言った。
隣りにはハリネズミのような短髪をした若い男が立っていた。ナイキのスニーカーにだぶついたジーンズ、赤のダウンジャケット。
真由が紹介した。男は大学の先輩ということだった。
「田中は会社員だっけ?」と真由が言った。
「そう。パン工場でラインに入ってる」と私は言った。
「あれ、そうだったの」と真由は言って笑った。「ねえ、ひとりで何をニヤニヤしてた訳?」
「真由に会いたいなって顔を思い浮かべていたところだったんだ」
「こういう人なのよ」と真由は言って男の顔を見やった。
「どういう人よ?」と男が言った。
「だから、寒空にひとりベンチでコーヒーなんか飲んでニヤニヤしてるような、ナイーブな大人なのよ」
「なるほど」と私は言った。「ところで、二人は付き合ってるの?」
「やっぱりデートと恋愛は違うみたいね」真由は言った。
「時間の問題だよな俺達」と男が言った。
「絶対ありえない」と真由は言って、白くて華奢な拳で男の腹を殴って見せた。「どうだ参ったか」
「腹減った」と男は腹を撫でながら言った。
「田中、わたしを見て」と真由は言って、私の目を見つめた。
「さっきからずっと見てるよ」と私は言った。
「愛してる、愛してる、愛してる。初めて会った時から、田中に夢中なの。顔も見れないくらい」
「いやな予感がする」と私は言った。
「ディナー、おごって」と真由は言った。「前に約束したよね?」
「参ったな」と私は言った。「牛丼を食べたところなんだ」
「うそつき!またうそついてるー」
「ほんとだって、食べたとこなんだよ」
「じゃあ俺が食べますよ」と男が言った。
「いいや、僕が食べる。そのかわり、わかってるよね?」
「いいよ。好きにして」と真由は言ってウインクして見せた。
財布の中身を思い浮かべて、自信なく立ち上がる。それが二人への合図となって私達はマルビルに入っていった。
つづく
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