キクチ・ヒサシ
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「ノートの深夜」
「喜びにも悲しみにも、花はわれらの不断の友である。花と共に飲み、共に食らい、共に歌い、共に踊り、共に戯れる。花を飾って結婚式をあげ、花をもって命名の式を行う。花がなくては死んでも行けぬ。百合の花をもって礼拝し、蓮の花をもって冥想に入り、ばらや菊花をつけ、戦列を作って突撃した。さらに花言葉で話そうとまで企てた。花なくてどうして生きて行かれよう」(岡倉天心「茶の本」) 前田龍と出会った日のことを今でも覚えている、二〇〇九年の六月で、ちょうど七年前になる。彼は当時、五十八歳で、
ダイスケの頬は少しこけたように見えたが、他は変わりがなかった。中央から分けた前髪が眉毛の端を通って耳に向かい、耳たぶの下からは余計な肉のない顎のラインがくっきり浮かび上がっている。十五歳の時から飽きるほど眺めてきたはずのダイスケの横顔を、私は初めて見るように眺めている。髪の束になった部分や耳の微妙な曲線や唇の皺の一つ一つにダイスケがいて、それを見逃してはならないと思っているかのようだった。 私達はHEPFIVE前の柵に並んで腰掛けていた。 「久しぶり」とダイスケは言った。
長柄橋を渡る間に、カップ酒を飲み干した。トラックが走ってくる度に橋が縦に揺れるので、何度も立ち止まった。真向かいから吹く風で息苦しくて顔を背けていたせいか、橋がいつもより長く感じた。闇に同化したような黒い川を見下ろすと胸が静まる。祖父が火葬炉で焼かれているのをガラス越しに眺めていた時の感じに似ていた。私は祖父の顔を思い浮かべようとした。火葬炉から引き出された台車の上で身動きしない頭蓋骨が脳裏に浮かんだ。静寂を求めて歩いてきたはずだったが、本当に静かなものに近づくことが危険な
一人になると街まで変わったように見えた。馴染みのある角まで歩いて、そこを右に曲がる。暗がりの中、うっすらと光る「PECO」の文字。私はバーの重い扉を開けた。 カウンターの端に座って、デュベルを頼んだ。客は年配のカップルとグループがほとんどで、カウンターの上に小さなサンタクロースの人形が置いてある他はいつもと変わりがなかった。 隣りではスーツを着て眼鏡をかけた四十代くらいに見える男が、海外旅行の経験を語っていた。ベルギーにはオランダから入ったとか、シンガポールで偶然に知人
梅田の街を十分ほど歩いた。冷たい風が頬に心地良かった。店から夜の街に出た開放感、まだこれからお楽しみが残っているという予感、尽きることなく交わされるおしゃべりの中を私達は歩いていた。お祭り騒ぎに胸を高ぶらせている人々の笑顔や喚声や繋がれる手。携帯電話を手に、目の前にいない人に話し掛けている人々。駅へと急ぐ人々の流れ、その無数に繰り出される足。車道を赤いテールランプがひっきりなしに走り、信号の緑と赤さえも特別な光を宿しているみたいに見える。赤い観覧車が建物の隙間に浮かび、赤を
手の平に銀色に輝く四角を載せて、ゆっくり顔に近づけていく。小さなアルファベットでポールスミスという刻印があるのを私は認める。細かい擦り傷に覆われたシルバージッポ。キャップを開けて、ホイールを親指で擦る。発火石の擦れる心地良い音が鳴り、小さな火が現われて、どことなく甘いオイルの匂いがテーブルの上に立ち昇る。オレンジとイエローの尖った火をひとしきり眺めて、いきなり親指でキャップを被せる。金属が触れ合う、カチャという音が鳴って火は消えた。 午後六時前、予約していたカフェにはまだ
黒い机の左端にライムが一つ置いてある。眠る前に椅子に腰掛けて、そのライムを握るのが習慣になっていた。今では爪で叩くとコツコツと音がするほどの堅さを得て、弾力を失い、色は緑から茶を経て、黒に急いでいる。目を閉じて形を味わうように指を全体に這わしていく。車が走り去る音さえも、寄せては返す波の音のように胸に迫る深夜。商店街から響いてくる、酔いに我を失った女の甲高い声や男の怒鳴り声さえも、人類が長い夜を耐え忍んできた記憶を宿す慟哭となって胸に去来する。まぶたの奥で空っぽに終わった一
当日は、天気予報を裏切って雨が降っていた。窓と屋根に降り注ぐ雨の音で私は目覚めて、ベッドの上で身体を起こした。一瞬、寝過ごして夜になってしまったかと思うほど部屋は暗かった。テレビをつけて、朝の八時半であることを確認する。台所で水を飲み、煙草に火を点けてから、陽子に電話をかけた。受話器を耳に押し当てたまま、カーテンを開けて、水滴でつぶつぶになった窓ガラス越しに外を眺めた。薄暗い雨の朝を、傘が並んで眼下の路地を進んでいくのが見えた。水滴がつーっと目の前のガラスを走って外の世界を
三人でカフェバーに入った。壁に設置してある、大きな鐘付きの時計がオレンジ色の照明を受けて、壮大な歴史を匂わせるという趣の店だった。カウンターには五人ほどスーツを着た男達が、テーブル席には一組のカップルが座っていた。BGMはレッド・ベリーだった。私達は奥のテーブル席に座った。アンティークを模した木製の四人掛けのテーブルだった。真由が一番奥で、隣りに先輩の男、私は真由の向かいに座った。 真由がコートを脱ぐと、Vネックの緑のセーターから白い首筋が真っ直ぐ伸びて、薄暗いテーブルの
真由とその連れの男に夕食をおごるはめになったのは、十二月の半ばの土曜日だった。HEPFIVEの前、大きなツリーが飾ってあるのを囲む柵の上に私は腰掛けていた。周りには若い男女が腰掛けて、待ち人を期待顔や不安顔で群集の中に探している。見知らぬ誰かが視線を与えてくれるのを待つ為に放たれるような視線、ミニスカートの女の子達の上目遣い、悪顔をして突っ張って見せている男達、最新の髪形に落ち着きなく触れる手、紙袋や携帯電話を握り締める手。寒さやチークによる頬の赤色。ファッション誌に忠実な
八月の終わり頃の深夜、誰かが部屋の窓に小石をぶつけて、夢の続きを絶った。私は寝汗で気持ち悪い枕から頭を起こし、カーテンの向こうの窓に打ちつけるノックの音に耳をすませた。目を閉じて広がる世界が目の前を未だ漂い、意味で捉えられないイメージの集合が私を捉えていた。私は氷河に覆われた街を走って逃げていた。鋭い氷が空から降っている。誰もいなかった。倒壊をまぬがれているビルに駆け込み、階段を上がる。何としても大便をしなければならなかった。焦りに足がもつれた。一番高い窓から尻を突き出して
ハルミツに出会うまでの日常はおおよそ決まりきっていた。朝食もおろそかに電車に駆け込み、右向け右という態度に徹する八時間を会社で過ごした後、逃げるように電車に乗り込み、アパートで夕食を作って食べる。三年繰り返して新鮮味を欠いた、欠くべからざるリズム。 金曜日だけはよっぽどのことがなければ一時間は早く起きて、駅前のカフェでトーストとハムエッグを食べて、熱いコーヒーを二杯飲んだ。チェーホフの短篇小説を読み、煙草を吸い、窓の外を駅へと急ぐ人々を他人事のように眺める。時には早起きし
東通りのバーに入った。身体が温まってから、泡が消えたグラスビールを一気に飲み、ジャックダニエルをストレートで三杯か四杯ほど飲んだのまでははっきり覚えている。バーというよりはそう見せかけたキャバクラという趣の店で、濡れた唇をした若い女達がカウンターの向こうから、絶え間なくおしゃべりをしかけてきて、やたらとおかわりを勧めた。彼女達の接客に私は気疲れし、深酒と孤独を深めていった。今日という日のお楽しみ、先延ばしにすることで祝福に満ちていた行き先が果てようとしていた。カウンターの上
酔いが醒めるのを待った。目の前の電柱が、北東の方角に少し傾いていた。その角度を目で推測し、無数の電線の行方を追う自分がしばらく続いた。歩行を妨げる酔いの効果は次第に薄れ、箸が転がっても可笑しい、幼い頃の心持ちが戻ってくるのを感じて私は立ち上がり、足を進めていった。 HEPFIVEの前で左折し、次の十字で右折、ケンタッキーを右に横断歩道を渡り、アーケードを真っ直ぐ進む。松屋を過ぎて横断歩道を渡り、右折して直進。金色のかんざしを黒髪に挿した女の巨大な顔が出迎えた。白い顔に黒目
太陽が沈み、街には明かりが灯っていた。すっかり広がった薄闇に身を馴染ませ、コートの襟を立てて繁華街まで歩いた。路上は移動する人々で混み合い、頭上は曇り空で月は見当たらなかった。ビルの窓のいくつかに四角い光が灯り、点在して模様を描いているのが綺麗だった。 三番街のカフェに入ってビールとチーズグラタンをテーブルの上に並べて、煙草を吸った。窓際の席から外を行き交う人々を眺め、手の平を口の少し前にかざして、息を吹きかけて口臭を何度か確かめた。学生の集団が獲物を得た後の満足顔でブラ
観覧車を降りると地下街を通ってマルビルに行った。タワーレコードで音楽を試聴した後、イタリア料理の店に入ってパスタとビールを注文した。三時を過ぎていたが、アパートにはまだ帰りたくなかった。チーズで粘ついたトマトパスタを食べて、ビールを飲み干し、エスプレッソを頼んだ。朝に剃り損ねた髭を手で擦りながら、思いもしなかった自分の現在地とそれまでの過程を眺めた。過去がテーブルの上で現在に重なり、未来を侵食していく。煙草を吸い、エスプレッソをゆっくり飲んだ。 若いスーツを着た女がひとり