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短編小説集「LIGHT BLUE ライトブルー」

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記事一覧

サンフェイス

 仕事の帰り道、見知らぬ女に出会って一夜を供にした、とひとまずは書くことができる。午後七時過ぎにコンビニへ寄ったのが始まりで、終わりは女のアパートだった。  私がコンビニに入った時、その女がトウモロコシの缶詰を左手に提げていた鞄に入れるのが見えた。女は私が入ってきたのに気付き、様子を窺うように横目で見た。一秒くらい全ての動きを停止していた。私が万引きに気付いていないと判断したのか、女は奥の菓子類が置いてある商品棚のほうに歩いていった。  年は二十五歳くらい、濃紺色のジーンズに

その他の物語

1  弁当箱に卵焼きとご飯をつめているアイコの後ろに立って、その様子を見ていた。 「なあ、ぼく自信ないよ」と私は言った。 「なに、ぼくとか言ってるわけ?気持ちわるー」とアイコは言った。 「こないだみたいに目が変になっている人が面接官だったらどうしよう」 「そんなこと言っている場合じゃないでしょ」 「ずっと薄目みたいな感じで、目が合うとあさっての方向に目玉が逃げるんだよ。目をそらすんじゃなくて目玉だけが動く感じわかる?なんか人間じゃない感じなんだよ本当に」 「それはこないだの

彼女が嘔吐したもの

「あ、ゲロ吐いた」  四人組の女達が座っていたテーブルの上に嘔吐物が現れた時、一人の女が言った。彼女は四人の中で一番年をとっていた。嘔吐した女は、黒髪を肩の上でカットしていて、光沢のある白色のワンピースを着ていた。綺麗な女だった。他の二人はジーパンにティーシャツを着ていて、髪を茶色に染めていた。  彼女達が店に入って来たのは火曜日の夕方で、そのときにはまだテーブルには目立ったものは何もなかった。ぼくは厨房とホールをつないだところを出てすぐ目の前の席に彼女達を案内した。 「はじ

ボブディランとりんご飴

 床屋から戻ってきたヨージの表情を見た一瞬、大好きな女の子に生来の口臭と体臭のきつさを指摘されたか、彼の乳首の周りに毛が生えているのを指摘されたのではないかという懸念が頭をよぎったが、すぐにそうではないと分かった。  よう、おかえり、と私は平静を装って声をかけた。ヨージは顔を伏せた。彼の新しい髪型は巨大なブロッコリーを頭に載せているような型だった。その陽気な髪型とヨージの暗い表情の組み合わせは何とも笑いを喚起するものだったが、唇を噛み締めて堪えた。 「どうした?」と私は訊いた

消えた両方

 うそをつくこと。これが人間に許された最大の能力の一つである、と言った大学教授がいた。 「我々はうそによって、天までも軽々と梯子をかけ、地中深くまで同じ梯子をおろしていくこともできる」  うそくさい話だと当時の私は思った。教授はドイツ文学を担当する、六十近い、眉間に皺が刻まれた男だった。彼の価値観を強く提示するやり方に私は馴染めなくて、好きにはなれなかったのだが、どういう訳か最近になって、彼の言葉を思い出すことが多くなってきた。  正直であることが、獣じみた血なまぐさいもので

カマキリとペン

 ヨドバシカメラにコピー用紙を買いに行った。私はペンネームで恋愛小説を雑誌に連載している。一度プリントアウトしないと推敲できないタイプなので、とにかく紙がなくなるのが早い。まとめて買って送ってもらってもいいのだが、小説の連載で飯が食えるというほどの知名度がなく、金に余裕がない。内容も月刊雑誌で四ページほどの、すらりと軽く読める、通俗的な恋愛小説だ。芸術性は求められていない。男女が出会い、誤解があり、すれ違いがあり、意外な過去があり、泣かせる山場があり、ハッピーエンドか、涙をそ

三十の夜に起きたこと

 三十歳。その年齢が節目なんて本当でしょうか。派遣会社で契約社員として働いていた始めの頃、わたしは二十九歳で、そこには三十歳になったばかりの同僚がいました。彼女はショートヘアで背が高く、腰の細い、髪をよく触る、どこか気性の激しい、プライドの高い女にわたしには見えていました。  我々の仕事は、仕事を求めてやってくる人々と面談して、職務経歴とスキルと呼ばれるものを把握して、マッチングする(実際には、あなたにはこの仕事が合っています!と暗示にかけるのを常套手段とします。真にマッチン

キスの終わり

 夜ごはんを一緒に食べよう、という話だった。アケミさんが電話をかけてきて、ナナコも早く帰ってこられるみたいだから三人で、と言った。土曜日の午後三時過ぎで、私は一週間分の洗濯を終えてアパートで本を読んでいた。 「五時くらいからどう?夜はあたしも出ないといけないし」 「いいですよ。じゃあ五時にいきます」 「突然でごめんね、リョウ君。今日何か予定あったんじゃない?」 「いえ、大丈夫です」 「リョウ君、何も買ってこなくていいからね」 「はい」 「いい?ほんとよ。何も買ってこなくていい

黄金

 布団の上で畳を眺めながら、俺は目が覚めたらしい、と思っていた。分厚いテレビの上で、目覚まし時計が七時十分過ぎを指し示しているのが見える。青色で四角い、その時計はビンゴゲームの景品だったはずだが、一体どれくらい前にどこのビンゴゲームで手にしたものだったかは思い出せない。最近はすぐに時間が狂ってしまう。百円ショップで乾電池を買ってきて交換した翌朝で既に十五分進んでいたりするので、寝起きでその時計を見たところで信用がならない。朝に正確な時間になるように、あえて時計の針を十五分遅ら

星降る夜

  1   その夜、仕事を終え、ようやく辿り着いた五階建てアパートのドアノブに手をかけたまま、彼は星を見上げた。明日のクリスマスパーティのことを彼は考えていた。白い息が、夜に現れ、消えていく。彼は星を見る、星が彼を見た。中に入り、ドアを閉め、鍵をかける。そして、居間に入ったとき、彼は、予期せぬお客様の姿を目にした。  居間の中を、ウサギが跳ね回っていた。オレンジ色の常夜灯だけがついた暗がりの中を、ウサギが跳ね回っているのだ。何かのパーティが始まっているのかと彼は思った。目

祝いマスター

1  田中の話では、それは突発的に起きたと言う。満員電車の中で、くちゃくちゃとガムを噛む男の吐息を感じたとき、田中の目は、発生源である口元へと向かった。それが決定的なことになるとは夢にも思わなかったに違いない。鼻毛と髭の境界不明地帯で、青い砂漠に生えた黒々とした一本の木を、まるで夢のように見たのだと言う。それで、田中は電車を降りて出勤すると、会社に辞表を提出することになった。午前中に会社を辞すると、田中は歩いて天王寺まで行った。あべのハルカスを、何の目的もなく、歩き回った。