グッド・フレンド
東通りのバーに入った。身体が温まってから、泡が消えたグラスビールを一気に飲み、ジャックダニエルをストレートで三杯か四杯ほど飲んだのまでははっきり覚えている。バーというよりはそう見せかけたキャバクラという趣の店で、濡れた唇をした若い女達がカウンターの向こうから、絶え間なくおしゃべりをしかけてきて、やたらとおかわりを勧めた。彼女達の接客に私は気疲れし、深酒と孤独を深めていった。今日という日のお楽しみ、先延ばしにすることで祝福に満ちていた行き先が果てようとしていた。カウンターの上の紙コースター、その上の小さなグラスを満たすジャックダニエルを私はじっと眺めた。
金を払い、店を出た。駅まで向かう途中のどこかで、大きな柱時計の針がガチャリと音を立てて、十二時五分を指し示したのを見た。私は土曜日に足を踏み入れていた。新しい一日の始まりと人恋しさに駆られて、私は走った。JRと阪急を繋ぐ歩道橋の傍に住む、仙ちゃんに会いに行こうと思った。大阪に出てきて十年。雨の日も風の日も、電話をしなくとも、気まぐれに訪れても、変わらぬ無表情で路上に立ち尽くして待ってくれている友人。細く小さい身体、仙人のようにありのままの髪と髭、節食生活。
いつもの場所に仙ちゃんはいなかった。私は歩道橋の下を抜けて、ダンボールの家が立ち並ぶ路地に走った。
「仙ちゃんいる?」と私は言った。
ダンボールの一つがカサカサと動いた。「仙ちゃん?」
箱から年老いた女が顔を突き出した。仙ちゃんではなかった。彼女に煙草を渡して、再び走った。笑いが止まらなかった。
「仙ちゃんも死んだ」と私は叫んだ。
阪急を抜けて、カッパ横丁まで歩いた。薄暗い角を曲がり、改良に改良を重ねた車が大地を振るわせるような音量で「浜崎あゆみ」の曲を鳴らしてゆっくり走り去るのを眺めた後、向かいの歩道をサラサラの髪をした長身の男が、黒いコートに両手を突っ込んで歩いているのが目に入る。
ダイスケ、と私は小さく口ずさみ、角の向こうに身体を隠した。
お互いの顔を描き合い、夢と感傷と幻滅を共にした男に似ていた。似ているだけに決まっている。もしダイスケだとしても、何をコソコソする必要がある。少しの間、私は角から一歩も動けなかった。
目を閉じると世界が散らばってしまうような回転がやってくる。まばたきもしないように努力して、阪急梅田駅に向かった。
十二時二十分過ぎで、終電まで数分残っていた。切符を買ったところで堪えきれなくなり、トイレに駆け込み、嘔吐した。便座に腰かけると、意識が今にも彼方に吹き飛んでいくように感じて、自分の膝に両手でしがみついていた。高校時代までのダイスケはよく笑う男だった。笑った時に出来るえくぼが好きだった。私が高校時代に一人の彼女をようやく得て、ぎこちないキスを交わす頃、ダイスケは既に五人の彼女とキスをし、ペッティングをし合い、公園や部室でセックスをし、五通りの別れに至って心を痛めていた。それでも彼はまだ笑っていた。いつも冷静で機知に富み、美青年で女にもてた。絵が上手く、口が上手かった。サッカー部では攻撃的なボランチとして県内に名を轟かせ、大学からのスカウトを蹴った。どうあがいても勝ち目のない男だった。人に優しく、純粋で、いつも穏やかな微笑を浮かべていた。やがて彼の顔から表情というものが消え失せ、不正直さと狡猾さを獲得していく過程。ダイスケの顔が思い浮かび、自分の顔に重なる。水が飲みたかった。唾が飲み込めないほどに喉が渇いていた。渦の中を真横に細長い光が走り去り、濃い闇がやってくる。
ノックの音が聞こえて目覚めた。鍵を外してドアを開ける。
「もう営業は終わりましたよ」
駅員の視線を感じて、自分が下半身を丸出しにしていることに気が付き、ズボンを上げた。
人もまばらになった街で暗闇に浮かぶ観覧車を眺め、立ち尽くしていた。温かいお茶を自動販売機で買って飲み干し、タクシー乗り場に向かった。束の間の睡眠を経て、足は確かだった。
タクシーの中でベックの「IT'S ALL IN YOUR MIND」を運転手に聞こえないように口の中で歌った。二番の途中で運転手が話し掛けてきた。景気が悪いという話、客がすっかり減って水商売の女の子でさえタクシーを使わなくなってきたという話。話好きの男だった。「昔は水商売の女の子が乗ってきて、いい思いもしたもんです。神戸にいた頃ね」
彼はミラー越しに私の顔を見た。
「煙草を吸ってもいいですか?」
「どうぞどうぞ」と彼は言って、窓を少し開けた。
煙草がなかった。その時の私は煙草の行方を思い出すことは出来なかった。両手がポケットというポケットに滑り込んで、ゴミ屑を掴んで戻ってきた。窓から冷たい風が無意味に吹き込み続けた。
「飲むと女もたまらなくなる時もあるんでしょうね。けっこうよくありましたよ。『してよ』とこうきます。ちょっと話が合えば、しょっちゅうそういうことはありました。といっても、タクシー代とホテル代をあわせると馬鹿になりませんよ。全部こっちもちですからね。女はさせる方ですから、怖いですよ。妻も結婚する前は優しくてね。だまされましたよ。今はおっかないですよ。ほんと後悔ですよ。あの時は何にも分からなかったんでね。まあ、うちのことはいいんですけどね。でも今はもう難しいですな。何かあるとすぐに会社に電話がきます。男が出てきて面倒なことになった奴もいますよ。そういや最近でも、同僚でチチだけ吸ったとかいう話はありましたね。はっはっはっ。どっちにしろ、こっちからはどうにもできませんな。女がしたいと言ってくれるのを待つばかりですよ。あるいはうだつが上がらないせいなんですかね?スマップっていうんですか。ああいうのだと話は違うんでしょうね。まあ現実を見ないとね。とはいえ、もう少しね、自分の人生にも何かあるんだと思ってたんですけどね。まあこんなもんです。はっはっはっ」
アパートで目覚めたのは午後二時過ぎだった。台所に行って水を二杯飲み、煙草を吸った。大きなグラスに氷をたっぷり入れてアップルジュースを注ぎ、ゆっくり飲んだ。頭が痛かった。昼過ぎだというのに、いつになく強固に朝立ちをしていて収まらなかった。
アップルジュースを飲みながら、ハルミツに出会って、ダイスケに至った一日の流れを頭の中で追った。パソコンを置いた机の上の壁に目をやり、ダイスケが描いた私の顔と、私が描いたダイスケの顔が額に入って並んでいるのを眺める。遺影みたいだな、と思った。ハルミツが描いたスケッチを鞄から取り出して、机の上に置いた。
熱いシャワーを浴びた後、ベッドに戻って毛布にくるまり、眠りを待った。
つづく
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