見出し画像

クリスマスの観音像

 一人になると街まで変わったように見えた。馴染みのある角まで歩いて、そこを右に曲がる。暗がりの中、うっすらと光る「PECO」の文字。私はバーの重い扉を開けた。
 カウンターの端に座って、デュベルを頼んだ。客は年配のカップルとグループがほとんどで、カウンターの上に小さなサンタクロースの人形が置いてある他はいつもと変わりがなかった。
 隣りではスーツを着て眼鏡をかけた四十代くらいに見える男が、海外旅行の経験を語っていた。ベルギーにはオランダから入ったとか、シンガポールで偶然に知人に会ったとかいう話で、連れのパーマをかけた同年代の女は概ね退屈しているようだった。私が二杯目のデュベルを飲み干す間に、女は三度も携帯電話を取り出していたが、「スペイン、情熱の国。いいよねースパニッシュ」と男は続けていた。向こうの端に十代の女の子のような服装をした、五十は過ぎているように見える女が座っていて、店の全員に話し掛けているような声で、若いバーテンダーに語りかけていた。「それが違うのよ。あたしの脚を舐めようとしたのよ、その男!だから言ってやったわよ。髭の濃い男はごめんだってね」
 デュベルを飲み、煙草を吸い、バーテンダーの背後に並んだ酒の瓶を眺めた。弱く、暖かいオレンジ色の照明を受けて、瓶がとても綺麗だった。ラベルのフォントや、その小さな世界に広げられる印象の差異をしばらく見比べた。バーテンダーの背後に送る視線を、注文の合図と思ったのか、彼らは何度か目を見開いた。
 灰皿をバーテンダーが取り替えた。礼を言い、まだ灰を受けていない透明な灰皿を手前に引き寄せた時、黒光りしているカウンターテーブルに自分の顔が映っているのが目に入る。下から覗き込んだ時に見えるはずの自分の顔を、しばらく見下ろした。視線を上げて、自分以外の顔を思い浮かべる。ハルミツ、真由、ミホ、ダイスケ、陽子、亜美、母と続き、顔も名前もなく土管から突き出ている尻が最後に浮かんだ。私は顔を忘れた人達の名前を暗唱し、名前を忘れた顔を思い浮かべようとした。集中できず、リストはすぐに終わった。  
 カウンターの上で両手を眺め、真由の頬の感触を思い返す。目を閉じると、真由とキスした時と同じ暗闇が見える。やがて、焦点の定まらない肌色が見えて、少し遠ざかって真由の頬となり、ほど良い距離で顔の全体が現れた。「わたしと結婚でもしない?」と真由は言う。
「恋愛を飛び越えて?」と私は言った。
「運命とか赤い糸とか、わたしは信じないの。でも誰かに外からそう言われるのは別にいいの」
「あっそう、じゃあ愛はなくてもいい?」
「愛は後からついてくるのよ。わたしが田中に教えてあげる」
「真由」と私は呼びかけた。
「何、呼び捨てにしてるのよう」と真由は言った。「それとも、今の呼び捨てを答えに受け取ってもいいの?」
「そっか。ハルミツならきっとうまくいくよ」と私は言っていた。
 デュベルを飲み干し、ジンライムを頼んだ。隣りの男が本場のクリスマスは日本とは違うと語り始めたが、女は途中で立ち上がり、明日仕事だからそろそろ、と言った。二人が去り、やがて若いカップルが入ってきた。男は二十五歳くらい、ストレートパーマをあてた氷柱のような前髪が、眉毛の上にべったりと垂れ下がっていた。女はもう少し若く見える。髪を頭頂部で棒状に立てていて、耳に大きな輪のピアスをつけていた。男はシーバスリーガルのロックを二つ頼んだ。「こういう店ではね、シーバスとか頼むと、若いのに分かってる男だなってなるわけよ」と彼が言った。「渋いね。どこで覚えるのそんなの?」と彼女は言った。「まあ、いろいろね。多くは語らないよ俺は、多くはね」と彼は言った。
 ジンライムを三杯飲むと、酒を飲む方がつらくなってきた。もう少し酒に強ければな、と私は思った。トイレに行き、戻ってくるとバーテンダーは私の前に水を置いて、隙のない微笑みを浮かべた。
 潮時を感じて、私はよろめかないように気を付けながら席を立った。勘定を払った後、コートの袖を両腕に通してくれたバーテンダーが言った。「良いクリスマスを」
 私は彼の顔を見た。前に白いゴミのことを話した、髭のバーテンダーだった。彼の髭を見る時間が少し長かったのだろう。「前にお話したことありましたか?」と彼は言った。
「いえ、ないです」と私は言った。
「失礼致しました」と彼は言った。
 日付が変わって十五分が過ぎていた。車体の低い、白いワゴンが大音量の日本語のラップを垂れ流して、目の前をのろのろと走っていた。好きでもないのに、耳にこびりついている流行歌の一つだった。「ありがとう、って母に感謝、俺は空車、で父は第三者。ヨウヨウ、愛は救急車。おうイエス、カモンベイベー、ウーイェ」中には四人の男達が乗っていて、ガムをくちゃくちゃして、誇らしげな笑みを浮かべている。建物の陰に走り、壁に手をついた。胃が締め付けられて、逆流した酒が喉元を駆け上がり、巨大な力で口をこじ開ける。靴に自分の嘔吐物がかからないように両足を広げて、身を屈めた。逆流の勢いが激しかったので胃が痛かった。昔はこんなに酒に弱くなかった、と私は思う。十九歳の時、初めてのバイト先の店長は三十二歳で、小さなゲームセンターを閉めた後、よく居酒屋に連れていってくれた。彼は酔うと亀のような顔で口を開いて、しきりに言った。昔は酒が強くて、ビールを三十本飲んだりしたもんだよ、でももう弱くなって飲めなくなった。こういうことを口走る男にだけはなるまいと思っていた私は、今では同じようなことを口走っている。私は痰を吐いた。口の中に酸味が広がり、乾いて嫌な臭いがしていた。どこか静かなところに行きたかった。
 
 自動販売機で温かい緑茶を買って飲み干した。長柄橋に行こうと私は思った。天神橋筋六丁目まで歩いて、長柄橋を渡り、いけるところまで歩いてアパートに帰るのだ。
 長柄橋には言い伝えがあった。古代、長柄橋の架設は難工事だったため、人柱を捧げることになり、長者は継ぎのある袴をはいている者を人柱にするように言ったが、袴に継ぎがあったのは長者自身だった。長者が人柱になると、美しい一人娘の光照前は全く口を利かないようになってしまった。
 天神橋筋六丁目まで歩きながら、光照前が口を利かなくなった後のことを思い出そうとしたが集中できず、気付くと意識はふわふわと観覧車でのキスまで飛んでいる。意識を戻すも、また別のところにすぐに飛んでいってしまった。
 緩やかな坂を上がり切ると、ラブホテルを最後に視界を阻んでいた建物の連なりが途絶えて、空が広がった。冷たい風が顔面に吹きつけてくる。長柄小橋の短い道程を歩き、曇った空の下に光る長柄橋の白いアーチを眺めた。左右には土手が続いていた。
 橋の手前にある観音像の前に髪の長い男が座り込んでいた。私みたいな酔っ払いだろうと思ったが、何かが引っかかった。観音像の前で立ち止まり、男を見下ろした。両足を投げ出して、長い髪と髭がうつむいた顔を覆い隠している。古びたスキージャンバーの肩口には穴が開き、異様なほどに薄汚れていた。ズボンは何年も風雨を受けたかのようで、見るからに臭いそうな色をしていた。はだしの足は、爪と指の境目がわからないほどに真っ黒だった。泥の中から上がってきたような足だ。脱力した男の腕が、肩が、小刻みに震えているのに私は気付く。こんな寒い日に、ここで風を凌ぐのはきつすぎる。
「今夜は寒いね」と私は声をかけて、男の前にしゃがみ込んだ。
 彼が少しだけ顔を上げた。深い皺だらけの目元を見た時、顔をさーっと何かが走る感触がした。酔いが醒めたのか、ますます酔ったのか分からない。
「仙ちゃん!」と私は言った。「どうしてこんなところに」
 仙ちゃんは目を閉じる。頷くみたいに顎が下がった。眠ったように見えたが、肩は震えている。死にかけている、と思った。
「仙ちゃん、ここはだめだよ、寒すぎる。仲間は?せめて橋の下に行こう」
 私は仙ちゃんの肩を揺すった。開いた彼の目は光が弱く、濁っていた。ポケットからジッポを出して、火を点けた。
「さあ手を出して」と私は言った。
 仙ちゃんは両手を火の前にかざした。老いただけではない、風雨によって侵食された手だった。「何か僕にできることはある?煙草を吸う?」
 髭が風に揺れただけで、彼は口を開かなかった。私はジッポを彼の手に握らせた。人の手とは思えないほどに凍えていた。「このジッポは僕の大事な友人の持っていたものだよ。仙ちゃんに貸すね。少し待ってて。煙草を吸っててもいいよ」煙草を箱ごと渡して、立ち上がり、坂を走って下りた。
 彼には仲間がいない。物乞いもせず、ブルーシートの家も作らず、たった一人で何年も街をさまよっている。今日の風は冷たすぎる。大阪に来てまもない頃、歩道橋の下で一本の花を持って、立ち尽くしていた彼を私は歩道橋の上から見ていた。亜美と別れた時も、ダイスケとのことも、陽子が死んだ時も、私は仙ちゃんに全部話した。今思えば、この世で、黙って耳を傾けてくれたのは仙ちゃんだけだ。
 コンビニに着くと、温もったカップ酒と緑茶をカゴに入れた。おにぎり、カロリーメイト、百円ライター、ひざ掛け、靴下も入れた。のり弁当をレンジで温めてもらい、カップ入りの玉子スープにお湯を入れてもらった。
 袋を提げて、仙ちゃんの元に急いだ。彼の弱い目を私は思い起こした。前にはあんな目をしていることはなかった。こんな日に建物を離れて、観音像の前にいたことも気になった。
 息を切らした私を、橋のたもとで待っていたのは観音像だけだった。仙ちゃんは陽子のシルバージッポと煙草を持って、消えてしまっていた。彼を呼んだが、返事はなかった。橋の下におりて、目を走らせて声を張り上げたが、同じことだった。街に戻ったのかもしれない。
 観音像の前に戻り、袋からカップ酒を出して飲んだ。残りを袋ごと観音像に供えて、手を合わせる。仙ちゃんのことを祈った。陽子が愛用していたジッポで火を灯して、手を温めている姿を強く思い浮かべた。さようなら、と私は言った。それから長柄橋の人柱になった長者と口を利かなくなった光照前に想いを馳せ、観音像が建立された理由に思い至って、第二次大戦時に長柄橋の下で爆撃を受けて、亡くなった大勢の人達の顔をイメージした。メリークリスマス、と私は言った。
 観音は腕をだらりと垂らして、寝顔のような優しい表情を浮かべていた。


つづく
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?