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グッド・フレンド2

 ハルミツに出会うまでの日常はおおよそ決まりきっていた。朝食もおろそかに電車に駆け込み、右向け右という態度に徹する八時間を会社で過ごした後、逃げるように電車に乗り込み、アパートで夕食を作って食べる。三年繰り返して新鮮味を欠いた、欠くべからざるリズム。
 金曜日だけはよっぽどのことがなければ一時間は早く起きて、駅前のカフェでトーストとハムエッグを食べて、熱いコーヒーを二杯飲んだ。チェーホフの短篇小説を読み、煙草を吸い、窓の外を駅へと急ぐ人々を他人事のように眺める。時には早起きした甲斐もなく、本に没頭した後悔を抱えて狂ったように電車へ駆け込むことを余儀なくされることもあったが、午後八時にはアパートの近くにある南欧風居酒屋でベルギービールを飲み、チーズがてんこもりのピザとツナサラダを食べる楽しみがいつでも待っていた。六十を過ぎたマスターと四十代後半の妻の二枚舌には辟易していたが、料理の味は確かで、常連としての楽しさとわずらわしさは束の間の家族気分を味わわせてもくれた。
 土曜日には朝の五時に起きて、まだ人の少ない街を自転車で走った。薄暗い朝靄の中を私の肉体が耐えうる限りの力で突き進んでいく。意味を為さない信号があり、一日の予感があり、淀川にかかる長柄橋の上でおにぎりを食べる楽しみが待っていた。太陽が姿を現す瞬間はいつでも美しかった。用事のない日曜日の昼過ぎ、まだ毛布の中にいて、その情景を思い浮かべる時にはなおさらだった。
 金曜と土曜にピークを持ってくる私の日常に、ハルミツがランダムに加わるようになり、やがてそれが新しいリズムを形成した。十一月の間に二度、ハルミツは私のアパートに来て、六畳一間のアパートを落ち着きなくウロウロして、埃を舞い上げ、十九歳らしい素直さと憎たらしさを自然と発揮するようになり、私の金で宅配ピザを食べてビールを飲み、打ち解けるほどに舌打ちをすることは少なくなっていった。
 二度目の時にハルミツは本棚から梶井基次郎の「檸檬」を持っていった。どういう基準で選んだのか定かではなかったし、どうせ文庫本が痛むだけだろうなと思ったが、快く渡した。
 三度目にハルミツが来たのは十二月の初めの土曜日で、トイレの最中にぶるっとした震えがくるような寒い夕方だった。
 ドアを開けるとハルミツは言った。「よう」
 今ではすっかりこの調子で、バスの運転手同士が業務のかたわら、ハンドルから右手を離して挨拶を交わす時のように、私も「よう」などと言って赤面もせずに、右手を挙げてしまうのだった。
 彼はベッドの上に腰掛けて、部屋に変化したところがないか浮気を疑う彼女のようにじっくり目を走らせている。
「しかし、殺風景だよね」とハルミツは言った。「もっと壁にポスターとか貼ったらいいのに」
「白い壁が好きなんだ」と私は言った。もうこれを言うのも三度目だった。
「へんなの」
「ハルミツの口の周りが乾燥して粉を吹いて白くなっているのも好きだよ」
「だまれ」とハルミツは言って、人差し指の第二関節の辺りにキスをして、その湿り気を口の周りにトントンと置くようにしていた。
 彼は鞄に手を突っ込んで緑色の玉を取り出して、私に差し出す。
「これお土産」いつになく低く演技くさい声で彼は言った。
 ライムだった。瑞々しい弾力を保って緑色に輝いている。私の手の中でライムはひんやりと心地良かった。
 私は礼を言って、パソコン以外には物を置いていない机の左隅にライムを置いた。
「梶井基次郎のレモン、読んでみた?」
「いや」と彼は言ってベッド横の何もない左の壁を眺めて言った。「まだ読んでないよ、全くね。レポートが忙しかったから」
「あっそう」と私は言った。
 フローリングの上に横たわり、住宅情報誌をめくっていた。間取りの中に夢を広げるのが私は好きだった。その間にハルミツは冷蔵庫を開けて、ほどなく冷凍庫を開けたかと思うと、楽しみに残していたアイスの「雪見だいふく」を取り出して平らげ、今度は三角チーズをちびちび食べながら、本棚とCD棚の間をいったりきたりした。机に向かって顔を上げて、左から順にダイスケの描いた私の顔を眺め、私の描いたダイスケの顔を眺め、最後に時間をかけて自分が描いた私の顔を眺めて立ち上がり、額の角に触ってみたりしている。台所に再び消えたかと思うと、「コアラのマーチ」の細長い箱に右手を窮屈に突っ込みながら戻ってきて、傑作と言って良い、そのチョコレート菓子をおにぎりでも食べるかのようにわしづかみしている。
「なあ、そろそろピザ頼む?」とハルミツは言って、宅配ピザ屋のチラシを開いている。
 情報誌を閉じて立ち上がり、彼を買物に誘った。私の年収はせいぜい二百万を超えるという程度で、ボーナスのようなものを貰ったこともない待遇を常識としていて、まさか可愛くも身勝手な学生の友人をいつも接待できるような余裕はなかった。
 スーパーまで向かう間に、ハルミツは大学のことを話した。教養課程でとっている心理学の教授がヒステリックな女であるとか、刑法を専門とする教授だか、その娘の方だか、両方だったかが援助交際で捕まったとか何とか、ありがちな話に終始した。
 シチューの材料と発泡酒の六缶パックを二つ買って、アパートに戻り、二人で調理した。私が野菜とウインナーを切って、彼は固形シチューの箱の裏にある説明書きを生真面目に熟読しながら、ガスコンロを扱うのにも不慣れな手で野菜とウインナー炒め、水を入れて、馬鹿正直にアクを取り、固形シチューと牛乳と胡椒で味を調えるというよりも、やたらとかき混ぜるという趣で鍋を震わせた。
「スケッチを描く時のように力を抜いてやればいいのに」と私は言った。
「力は抜いてるって」
「いいや、力が抜けてない」
「抜いてるって」
 シチューを二皿ずつスプーンですくい上げて、発泡酒の空き缶をテーブルの上に十缶ほど並べた後、ハルミツは私のベッドに寝そべった。酔っ払った、と彼は何度も言った。私は電気を消し、ルー・リードの「BERLIN」を小音量でかけ、ベッドの下に布団を引いて寝転がった。完全に暗記しているルー・リードの詩の一行一行を追った。
「田中さ、おれのスケッチにいたずらしただろ」
「してないよ」と私は言った。
「うそつくな。ちくわの中から桃が出てる感じにしただろ」
「土管から尻が出てるの、あれは」
「どうでもいいけど、いたずらはやめろよ」とハルミツは言った。
 薄暗い中、仰向けになって天井を眺め、思いつくままに二人で話した。寝たまま、天井に向かって出す声は起きている時と違って静かで、お互いの顔が見えない為に、息遣いだけが殻を脱いで交わり、夜の中に生き出しているみたいだ。
 喉に何かが詰まったようなハルミツの寝息がルー・リードの吐息に重なる。
 目を開けて、オレンジ色の常夜灯を眺めた。
「ハルミツ、今何を考えてる?」と私は言った。「お前、梶井基次郎の『檸檬』読んだだろ。それでレモンじゃあからさまだから、ライム持ってきたんじゃないの?図星かな、黙ってるところをみると。寝たなら返事しろよ」
 机の上方で額縁に入った三つの顔がこちらを見下ろしている。毛布を首に巻きつけて、目を閉じた。
 
 翌朝、二人でテレビアニメを見ながらコーヒーを飲み、お互いのいびきを責め合ったりしては笑い、予定がないために幸福な予感に包まれる短い時間を楽しんだ。私よりも少し早く、予定のない不安の方が先立ってきたのか、ハルミツは突然立ち上がってシャワーを浴びると言った。
 彼がシャワーを浴びているユニットバスのドアノブを素早く引いて飛び込み、シャワーカーテンをスライドさせた。水滴を弾いている尻が眼前にあった。
「なあ、お湯加減はどう?」と私は言った。
「あけるな!シャワーだから、湯加減とか自分でできるから」
 一分ほどして、もう一度同じことをして、ハルミツの肉体に興味もないくせに、わざとじろじろ見回した。今度の彼は前を向いていた。
「でかいね?」と私は言った。
「みるなって!」
 カーテンを戻し、便座に腰掛けて朝の用を足した。野菜不足だったのか、きつい匂いが靄に包まれた狭い空間を満たす。ハルミツが不平を言ったので私はまたカーテンを開けた。
「お尻洗いたいんだけど、一緒に入ってもいい?」
「もう頭にきた。あとで絶対、田中のも見せろよ」
「僕のは小さいよ」と私は言った。
 昼過ぎに駅前のマクドナルドに入り、ハンバーガーとフライドポテトを食べてコーヒーを飲んだ。ケチャップがハルミツの口の端について、そのまま乾燥していき、色が変わった。紙ナプキンを使わないので、いつまでも唇が油で光ってもいた。
「スケッチはいつから描いてるの?」と私は訊いた。
「小さい頃」とハルミツは唇を動かした。「おばあちゃんとよく縁側で花のスケッチをしてたんだよ」
 私は紙ナプキンで唇を念入りに拭いて、煙草に火を点けた。隣りのテーブルでは四十代くらいに見える女が二人向き合って、煙草を吸っていた。一人は黒髪を後ろで束ねていて、もう一人はソバージュをあてていた。旦那の浮気を許すか許さないかという話題で二人はアルミの灰皿を山盛りにしていた。コーヒーの入った紙コップにはべっとりと赤い口紅がついていた。髪を束ねている女の夫が浮気して、そのことでソバージュの女が相談という名の説教を高い位置から振り下ろすというのが続いていた。
「子供の頃、おばあちゃんと毎日花を描いたり、小鳥を描いたりしたよ」とハルミツは言った。「描きながら、お見合い結婚したおじいちゃんのことをいつも話してくれたな。物心ついた時にはおじいちゃんは死んでたんだよ。学校で右に出る者のない秀才だったらしいけど、農家を継がなきゃいけなかったから進学を断念して毎日米をつくって、日本酒を飲んでテーブルをひっくり返してたらしいよ。お母さんはおじいちゃんのことを恨んでたけど、おばあちゃんはおじいちゃんのこと今でも好きだって言ってたね。世界一の男だとかって真顔で言うんだよ。でもまあ、時々愚痴を言うときもあるけどね。男は種をつけるばかりで子育てを手伝わなかったとかさ」
 ハルミツの声が内省的なものに変化し、若さからくる強がりが消えて、深みを帯び、心地よくテーブルの上を満たしていた。別のモードに切り替わったという感じだ。
「実家はどこ?」と私は訊いた。
「新潟だよ」
「あっそう」と私は言った。「地震は大丈夫だった?」
「うちは大丈夫だったよ。でもおばあちゃんの一番のお茶飲み友達は家に挟まれて死んじゃってさ。それからおばあちゃんは一人でお昼に散歩をするようになって、ある日、転んで両足の骨を折ってから、寝たきりになっちゃった。リハビリすれば、まだ歩けるはずなんだけどさ。言うことをきかないんだよ。おじいちゃんにもうすぐ会えるとか何とか言ってさ。よくある話だけど、実際に身近で起こるとへこむよ」
「誰が介護してるの?」
「お母さん。お父さんは十年も前に女をつくって出て行ったからね。若い小学校の先生と。東京でトラックの運転手してるみたい。まあどうでもいいけどね。けんかが絶えなかったから、静かになって良かったよ。お母さんは無口になって、時々珍しく酒なんか飲んだ時だけ『胸がでかいだけのあの女は今頃、だらんと乳が垂れ下がって牛のように哀れなことになってるに決まってる』とか汚い言葉で罵ることはあったけど、普段は口に出すことはないね。小さな郵便局で毎日働いて、ご飯作って食べて、テレビをみて寝るという感じ。何考えてるか分からない。今はおばあちゃんの介護もしてるから、疲れてるとは思うけどね」
 ハルミツは小さく舌打ちをして、沈黙した。プラスチック製のマドラーを掴んで、トレイの上に字を書くように動かしていた。私は底に残ったコーヒーをすすった。
「そんなの待ってどうするの!」とソバージュの女が甲高い声で言った。
「絶対戻ってくるってわかるのよ。ただの遊びよ。すぐに飽きて帰ってくる気がするのよ。あたし達は十七の時に出会ったのよ。あたしを捨てることなんてできないのよ。あたしは料理とセックスが良かったら絶対に男は戻ってくると思う」髪を束ねた女は静かな声で言って、新しい煙草に火を点けた。
「馬鹿じゃないの?」とソバージュは言った。「あんた何歳なのよ。若い女の肌に勝てるわけがないでしょう?言う意味はわかるよ。一度だけの人生、わたしだって若いジャニーズっぽい青年にはドキドキするし、旦那以外の男に抱かれてみたい気持ちはありありよ。でもね、それは話の上でよ。抱かれたくても、そうするわけにはいかないのよ。そんなことを認めるわけにはいかないのよ。あんたは旦那の母親じゃないんだよ?何を悠長に甘いこといってるのよ。理解してどうするの。あんたに浮気がばれてることにも気付かないようなドジな男なんだからガツンと言って土下座させるか、慰謝料をふんだくったらいいのよ」
「誰がドジなの?」髪を束ねた女が煙草をもみ消して、立ち上がった。ジャンバーを着て、鞄を右手で掴んだ。「あんたのとこの旦那とは違うの。浮気もできないような、もてないブ男とは違うのよ!」
「ちょっと何なのよ!」ソバージュが立ち上がった。髪を束ねた女は、向き合わずに拳を握り締めてその場を立ち去る。自動ドアの前で振り返って、さっきまでの相談相手を激しく睨みつけていった。
「いろいろ大変なんだね」と私は言った。
「そうなんだ」とハルミツは言った。「だからさ、おばあちゃんにスケッチをコピーして送ってるんだ。勇気づけたくてね。本当はそばにいて、お母さんとおばあちゃんを助けたいけどね。大学に進学することは、おばあちゃんの願いでもあったからね。おじいちゃんの無念を少しは背負ってるというか」
「意外と家族思いなんだね」と私は言った。
「ほんとは少しでも近い、東京の大学に行けたら良かったんだけど、滑り止めの大阪の大学しか受からなかった。家を出る時、二度と会えないかのようにおばあちゃん泣いてたよ」
 ハルミツの目が涙で唇よりも光った。
「おばあちゃんが好きなんだよ。子供の頃、近所のおじさんから家に遊びにくるように誘われて行ったことがあったんだ。おじさん夫婦は優しかったからよくそういうことはあったんだ。今思えば、夫婦は子供に恵まれてなかったんだね。で、家についておじさんはこう言ったよ。『おーい。ハルミツ連れてきたぞ』って。その時玄関から、パジャマ姿で居間に寝そべってる奥さんが顔をゆがめて『えーなんで?なんで連れてきたのう』って言ったのが見えた。優しいはずの奥さんの初めて見る表情だった。奥さんは視線に気付いて、作り笑いをした。一分ほど、その居間で沈黙して足元を見つめた後、おばあちゃんの元に走って戻った。おばあちゃんは夕食までずっと抱き締めてくれた」
 ハルミツに紙ナプキンを渡した。彼はそれで涙を拭いて、口の端のケチャップは拭かなかった。ハルミツはまだ大事な何かを語ろうという風にトレイに視線を落として、内面を見つめていたが、私はトイレに行くことで彼の話を中断した。少し年長の分だけ、後で話し過ぎたことを後悔しないように、話を終わらせるのは私の役割だったし、防衛をすぐに解く事のできる彼の幼さと美しさの中に長く留まりたいと願ってはいても、彼の長い独白への退屈が本能的に持ち上がり、意識の力では抗えなくなる瞬間が近づいていた。
 駅の改札で別れた。
「ライムありがとう。またね」と私は言った。
「おじいちゃんは酔うといつも言ってたらしいよ。『真実なんてない。これが真実だ』ってね。田中は意味わかる?」とハルミツは言った。
「わからん」と私は言った。「それよりさ、言いにくいことなんだけど、ハルミツの口の端にケチャップがついてる」
 ハルミツは舌の先を唇の両脇に交互に伸ばして舐めまわした。
「これはわざとなの!」とハルミツは真面目に言った。「お腹が空いた時のために、つけておいたんだ」
「あっそう」と私は言った。
 私の返答が怪しげに見えたのか、歯に挟まっていた食べかすが腹が減った時に偶然とれて、それを噛んで二度美味しい思いをしたことが私にもあるはずだ、とよくわからない理屈をこねてきたが、私は手を振った。
 アパートに戻り、洗濯と掃除を終えると夕方だった。腹が減らなかったので、ビールを一缶飲んでベッドに入り、高校の頃からつけている夢日記をめくっていた。日曜の夜はいつも眠れなかった。
 
 月曜の朝、駅へ向かう途中で母に電話をかけた。二年ぶりくらいだった。怒っているかもしれないな、と思った。彼女は何度も手紙やレトルトカレーでいっぱいのダンボール箱を送ってくれていたが、私は電話をすることもなかった。
「もしもし」と私は言った。
「田中ですが」と母の声は言った。
「おれ」と私は言った。「何してたの?」
 電話にしては長い沈黙が流れた。
「おはよ。今ウンコして出てきたところだよ。今日は難産だった。うふふ」
「おれもそんな風に産まれてきたの?」と私は言った。
「そうよ。久しぶりね馬鹿息子。実は話したいことがあるの」
「ごめんね。今から仕事だから」
 電話を切って、人混みの中へ、無数の知らない顔の中へ足を踏み入れていった。久しぶりに座れた車内で知らない老女が私の肩の上に頭を乗せて居眠りをした。私はその顔を遠慮なく眺め続けた、母の顔を思い浮かべながら。
 


つづく

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