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光、光、光

 梅田の街を十分ほど歩いた。冷たい風が頬に心地良かった。店から夜の街に出た開放感、まだこれからお楽しみが残っているという予感、尽きることなく交わされるおしゃべりの中を私達は歩いていた。お祭り騒ぎに胸を高ぶらせている人々の笑顔や喚声や繋がれる手。携帯電話を手に、目の前にいない人に話し掛けている人々。駅へと急ぐ人々の流れ、その無数に繰り出される足。車道を赤いテールランプがひっきりなしに走り、信号の緑と赤さえも特別な光を宿しているみたいに見える。赤い観覧車が建物の隙間に浮かび、赤を背景に銀色の細かい光が痙攣するように点滅した。私達の歩みに合わせて、観覧車は建物の陰に姿を消していく。
「はじめさ、田中は変な奴だと思ってたんだ」とハルミツは言った。
「僕も電車で見た時、相当に変な奴だと思ったよ」と私は言った。
「二人とも今でも変だよ?」と真由は言った。
「真由ちゃんも変だよ」とハルミツが言った。
「変じゃない人間なんている?」とミホが言った。
 HEPFIVEに着くと、エレベーターに乗った。狭い空間は若い男女で埋め尽くされて、真由の背中がぴったりと私の胸に引っ付くほどだった。ひそひそとした話し声と笑い声が詰まった箱が七階まで急上昇していった。
 チケットを買い、観覧車に乗る順番を待っていた。
「この観覧車で前の彼とキスした思い出があるの」とミホが言った。
「へーロマンチックね」と真由が言った。
「ベタでしょ?」とミホは言った。
 ミホの黒髪が光を受けて、小さな輝く模様を創っているのを私は眺めた。
「ベタな中をわたしは生きてきたの。バンドのベースを弾いてる子だったんだけどね。付き合って同棲するようになって、でもすぐに彼は別の女の子とできちゃって、別れた。別にそれはいいんだけど、好きな人ができたなら、できたって言って欲しかった。彼はバンドをやめて、食品の製造会社に勤めるようになって、ほらコンビニ弁当とか作ってるところよ。で、その子と結婚して今は子供もいるんだよね。たった二年の間に起きたことなんだけど、彼とここでキスをしたのは昨日みたい」
「ベタじゃないよ」とハルミツが言った。
「ベタでありがちな話。それにひどい男よ」とミホは言った。「でも好きだったの。ありがちな話でもわたしにとっては特別な思い出よ」ミホは微笑もうとしたが、持ち上げたかに思えた頬は眉間の皺を合図にくしゃくしゃになった。
「ミホちゃーん」と真由がミホを抱き締めた。「泣き上戸なんだから。よしよし」
 ミホは顔を上げて取り直したように、今度は微笑み、指で涙を拭った。「でもね、あんなに毎日一緒にいて、何をするのも一緒だったのに、別れた途端にもう会わなくなるのって変な感じ。まるで相手が死んでしまったみたいじゃない?」
 私と真由が隣りで向かいにはミホとハルミツが腰掛けて、ゴンドラはゆっくり上がっていった。暖房が効いていて、お尻が温かかった。私達は喚声を上げて、夜の都市の姿を眺めた。
「おしっこしたくなってきた」とハルミツは言った。
「もうなにやってんのよ」と真由は言った。「ねえ、田中は失恋とかある?」
「失恋ばっかりだよ」と私は言ったが、真由の方は見なかった。ゴンドラの赤い内装に囲まれたガラスに陽子の顔が浮かんで、消えなかった。アルカイックスマイルが突如として真顔に変わり、分厚い唇がぱっかりと開く。
「なんであんな胸の小さい子と付き合うわけ?」と陽子は言った。
「亜美のことか」と私は言う。「胸が小さい方が好きなんだよ」
「うそつかないで!」と陽子は言った。
 目を背けて、観覧車の赤い巨大な骨組みを見て、それからビルの頂上で点滅する赤い光の一つに焦点を合わせた。
「なんか聞かせてよ」と真由は言った。
「真由と一緒で、今では僕も恋愛をしないから、だいぶ前の話になるし、うまく思い出せないな」
「ちょっとでいいから、イブだし、お願い」と真由は言って、私の太ももに手を置いた。
「亜美っていう女の子と大学卒業前まで付き合って、別れたよ」と私は言った。「二年くらい付き合ったかな。失恋といえば失恋だね」
ガラスの向こうに目を走らせていた、ミホとハルミツが私の方に向き直った。
「夜景を見ててよ」と私は言った。
「どうして別れたの?」とミホは言った。
ゴンドラが風で少し揺れて、真由が私の肩を掴んだ。「こわーい。今揺れたよね」
「二ヶ月ぶりくらいに会ってさ、亜美のアパートに行ったんだ。その時は別れることになるとは思わなかった」と私は言った。
「じゃあどうして?」とミホは言った。
 その日、二人で映画を観た後に私は亜美のアパートに行った。キッチンでコーヒーを用意している亜美を後ろから抱き締めた。柔らかい肉に触れると、股間が硬く盛り上がって彼女の尻に突き刺さった。何が何だか分からなくなって、夢中で粘土をこねる子供のように亜美の胸をこねくり回した。股間が破裂しそうに感じ、それをぐいぐい尻に押し付けている。
「最初はただ抱き締めて」と亜美が言った。
 両手を休めて、亜美の首の前で腕を組んで静かに抱き締めた。背中を向けていて、顔の見えない彼女をそうして抱き締めていると、急に何かが切り替わって、胸が静けさに包まれた。
「こうしてるとどんな感じ?何か言って」と亜美は言った。
 身体が密着していても埋められない隙間が静かに響いているみたいだ。以前、母をこうして抱き締めた時の感覚に、私は突如として打たれて、引き戻されていく。
 高校の卒業式を終えて、大阪へと発つ前の日、私は母と二人でビールを飲んでいた。テーブルには母の得意料理、豚キムチ、肉じゃが、茄子の炒め物、豚トロとネギのガーリック焼きが並んでいる。当り障りのない話、生活についての教訓、お前はできる子だうんぬんが終わった後、酔いを深めた母はトイレから戻ってきた私の太ももにしがみついた。
「いかないで」と母は言った。「もう会えなくなるかもしれない」
「何言ってるの。大丈夫だよ、母さん」と私は言った。
 それから話は脱線を経て、いつもの愚痴に変わる。
「何もなかった」と母は言ってテーブルの上で頭を垂れて泣いた。「お母さんの人生は何もなかったの。息子もいなくなって、母さんの人生は終わりよ、何もない」
「再婚すればいいんだよ、母さん。大丈夫だよ」と私は言って、ビールを飲んだ。
「未成年のくせにビールや煙草をやるような息子を育ててしまった。本当に何もないのよ、母さんの人生は。わかる?」
 私は黙って煙草に火を点けて吸い、ビールを飲み、テーブルクロスを眺めた。黄色に赤の線でダイヤの模様が延々と続く趣味の悪い柄だが、子供の頃の思い出が詰まっていた。
「何もなくてもいいかな?」と母は言って、私を見た。「何もなくてもいいかな?」
「いいよ、母さん」と私は言った。
 酔いつぶれた母を抱き抱えて、布団まで運んでいき、毛布をかけた。私は今まで育ててくれたことについて、感謝を語った。涙が頬を伝った時、母は獣のようなイビキをかいて寝ていた。歯を磨いていない、キムチと酒の臭いがする母の唇にキスをして、自分の部屋に戻り、荷物をまとめた。
 翌朝、母は何事もなかったようにパートに行く準備をして、私の弁当を作っている。卵焼きを使い捨てのパックに詰めている母を後ろから抱き締めた。「立派な人間になって戻ってきてね」と彼女は言った。私は沈黙したまま、彼女を強く抱き締めた。
 身体が密着していても埋められない隙間が静かに響いているのを感じる。二人が、今では別々であることを証明するような束の間の音楽が隙間を埋めていた。いつか私はその隙間そのものだったような懐かしい気持ちがする。
「強くあたしを抱き締めて。今胸にある気持ちを言って」
 胸にある気持ち。それに言葉を与えようと集中した。亜美を強く抱き締める。彼女は確かに抱き締められている。
「哀しい」と私は言葉にした。
 沈黙がキッチンを包んで、亜美の時間が止まってしまったみたいに感じる。私は強く抱き締めたが、今度の彼女は抱き締められてはいない感触がした。
「愛しいって言って」と亜美は言った。
「哀しい」と私は言った。
「愛してるよって言って」と亜美は言った。
「亜美、哀しんでるよ。とても」と私は言った。
 亜美は私の腕を解いて、その場に座りこんだ。彼女の中から何かが抜け出してしまったかのように見えた。私は沈黙を守ることができなかった。
 股間の高まりも、胸の静けさも去った。私は亜美に背を向けてスニーカーに足を入れる。「いかないで」と彼女の声が聞こえた。私は後ろ手でドアを静かに閉めた。
「ねえ、早く?」と真由の声が暗闇に響く。私は焦点をビルの赤い点滅から、ゴンドラの中に戻した。こんな狭いところに自分がいるなんて信じられなかった。
「なんて言ったらいいのか、わかんないよ」と私は言った。
「最後、キスした?」とミホが言った。
「しなかったよ」
「わかった!田中は二ヶ月ぶりで、キスもしないで事に及ぼうとして嫌われた。どう、イイ線いってるでしょ?」と真由は言った。
「なんでわかるの?」と私は言った。
「女の子の脚ばっかり見てるからよ」真由は両手でコートとワンピースの裾をつまみ、白い太ももがよく見えるように開けたまま、私の目を覗きこむ。「どう?」という感じで。
 ハルミツが夜景から目を離して、真由の太ももに視線を落としたのをミホが目に留めて、「ハルミツ君、見てあれ」と外を指さした。「マルビルの一番上に誰かいるよ」
「どこ?」とハルミツは言った。「見えないけど」
 ゴンドラは私達を乗せて、ゆっくり一番高い所に向けて上っていった。このまま天国にでも行ってしまうんじゃないか、とも思った。私はコートに手を突っ込み、ジッポを握り締めた。
「ねえ、一番上あたりでソリに乗ったサンタクロースに会うかもね」と真由が言った。
「サンタクロースはもういない」とハルミツが言った。
「いるに決まってるでしょうが!」と真由は言った。
「ハルミツも酔っちゃったんだね」と私は言った。
 ミホがハルミツの髪を撫でた。
 静かだった。都市は暗がりに怯えるように無数の光を灯している。私達の生活、日常がどこか非現実的な夢物語のような気がしてくる。
「ねえ、キスしたい」と真由が言った。
 私達はゴンドラの中で顔を見合わせた。したくない者がいるかどうか確認し合うかのような視線が行き交った。沈黙が漂い、ゴンドラが少し揺れて、私達はお互いに寄り添い合う。誰も何も言わなかった。
「ニ分だけ」と真由が沈黙を破った。携帯電話を出してアラームをセットし始める。
「もう一分」とミホが言った。
「じゃあ三分ね」と真由が言った。「アラームが鳴った後、五秒数えてから前を向くこと。それまではお互いだけを見ているのが約束。いい?」
 私は首を真由の方に向けた。彼女もこちらを見て、両腕を私の首にまわした。香水の匂いが強くなった。「じゃあ、いくよ」と真由は言って、左手で携帯電話のキーを押して、それを太ももの上に置き、その手を私の首に戻した。
 私達は見つめ合った。柔らかそうな頬、豊かな茶髪、小さな鼻、長いまつ毛、一気に潤んだように見える瞳、白い首。私は両手を伸ばし、彼女の頬を包んだ。柔らかい感触がして、手が吸い込まれていく。半開きの小さな唇を見る。ゆっくり、彼女の顔の全体が見えなくなるほどに近づき、目を閉じてキスをした。何も見えなかった。一番近づいたと思われる瞬間、キスをしている相手の顔も、自分の顔も見えない。暗闇の中で優しい感覚が宙を行き交った。
 携帯電話のアラームが鳴り、やがて止まって、彼女は離れていった。数秒を置いて、ゆっくり目を開けた。ガラス、そこに映った光の模様。真由の顔。
 前に向き直ると、ハルミツとミホがそこにいた。
「どう?」と真由が言った。
「良かったよ。でも鼻がぶつかった」とミホが言って笑った。
 ハルミツは下を向いて、眼鏡の縁を触った。何度か、リップを塗った後の女の子みたいに唇を合わせていた。唇が消えて一本線となったハルミツの口元は、どこか哀しみに打たれた人を思わせた。
「メリークリスマス」と真由が言った。私達は笑ったが、すぐに妙な静けさに包まれた。大事なものを懐かしむような雰囲気に似ていた。
「見て」とハルミツが私の背後を指さした。
 下り坂に入った観覧車から見えたのは、カーブしている道路にひしめいた光の川だった。光の切っ先が鋭く尖って、ツリーの頂点の星形を思わせたが、過剰な光の集合は荒々しく、見てはいけないもののような趣があった。
「綺麗ね」とミホが言った。
「ねえ、あと一分だけ」と真由が言った。
 私とハルミツが席を交換して、また目を閉じた。
 キスを終えると真由が笑ってハルミツの股間を指した。ズボンが少し盛り上がっている。
「ちょっと何これ?」と真由は言った。
「違うって。もともとおれは大きいの!」とハルミツは言った。
 
 観覧車を降りると、腕を組んだり、突き飛ばしたりしながら、地下道を通ってスカイビルまで歩いていった。大きなツリーを囲んで民族調の出店が並び、中央のステージではミュージシャンが歌っていた。私達はビールを飲み、ドイツウインナーを食べ、蜂蜜がたっぷりかかった熱いドーナッツを食べ、ツリーの前で写真を撮り、店に並んだ小物をいくつか買った。
 再びHEPFIVEの前に戻ったのは十時半過ぎだった。私とハルミツはミホと連絡先を交換し合い、大晦日に四人で京都の寺に行く約束をした。
「今日はありがとう」と真由が言った。「すごーく良かったよ」
 同じ事を口々に言い合った後、その場にふさわしい特別な挨拶を考えて、私は頭上を見上げる。観覧車がそこにあった。
「ヒカリ」と男の声が聞こえた。
 声の方、ざわついた人影の中に視線を向ける。
 人込みの中に立ち止まった長身の男がこちらに歩いてくる。長い髪をなびかせて、光沢のある黒いスーツに身を包んでいる。亡霊、としか思えない。
「ひさしぶりだな、光」と男は言った。「田中光」
「ダイスケ」と私は口に出した。次の言葉が出なかった。
「どうした?」とダイスケは言った。
「フルネームで呼ばなくていい」と私は言った。
「あっそう」とダイスケは言って、その目が真由、ミホ、ハルミツへと順に注がれた。髪をかきあげて、薄い唇の端をうっすら持ち上げてから私に戻る。
「ダブルデートの途中なんだ」と私は言った。
「まだ大阪にいたんだな。あとで電話するよ」ダイスケは私の返答を待たずにさっと反転して、足早に去っていく。いつでもこうだ。何事もなかったような顔をして去っていく。
「待て」と私は言った。「いや待たなくていい」と呟いた。叫ばない限り、もう届かないところまでダイスケは足を進めてしまっていた。叫んでも振り返りもしないかもしれない。
「誰?なんか見たことあるな」とハルミツが言った。
「昔の友人だよ」と私は言った。
「何してる人?かっこいいね」と真由は言った。
「さあね、サーカスの座長でもやってるんじゃないかな」と私は言った。
「わたし、いつもこうって訳じゃないからね」とミホが言った。「今日はでも、特別に楽しかった」
「ねえ、このあと男同士で反省会するんでしょう?」と真由が言った。「それか、解散したと見せかけて、あとで二人きりでホテルで合流したりとかあるかな?」真由は私の目を覗きこんだ。観覧車で見つめあった時間を微かに示唆するような瞳だ。
「エッチは五回目のデートだった?」とハルミツが訊いた。
「ハルミツ君、真に受けてないよね?」と真由が言った。
 信号が青に変わり、彼女達は横断歩道を渡って行った。「メリークリスマス」
「メリークリスマス」と私は言った。
 横断歩道を渡り切ったところで二人は振り返り、手を振った。人込みの中へ、建物の角へ、二人は消えていった。
 女達が去った空白の中でしばらく沈黙した後、意味もなくハルミツと顔を見合わせて笑った。
「あのさ」とハルミツが言った。「こないだの話だけどさ。三人とも、好きだったんだ。ほんとに三人とも好きだったんだけど、なんか今はもうどうでもよくなったよ。真実の恋だと思ってたのに、なんでかな?」
「真実なんてない、これが真実だ。だったっけ?」と私は言った。
「おじいちゃんか」とハルミツは言った。
「キス良かった?」と私は訊いた。
「良かった」ハルミツの鼻の下で唇が消えて、一本線が走った。彼が初めて女とキスをしたことに私は思い当たった。
「好きになった?」
 ハルミツは頷いた。
「ミホ?」
「真由」とハルミツは言った。
「そっか。ハルミツならきっとうまくいくよ」と私は言った。
 ズボンのポケットに手を入れて、用意していた小さな箱を取り出し、ハルミツに手渡した。リボンは潰れてしまっていた。
「ハッピーバースデイ」と私は言った。「これはサンタクロースからだよ」
「おれ、何にも用意してない」
「これは僕からじゃなくて、サンタクロースからだよ。二十歳おめでとう」
「サンタさんが誕生日を祝ってくれるなんて聞いたことないけど」
「気まぐれなんだね、きっと」
 ハルミツと別れた後、私はしばらくHEPFIVEの前に立ち尽くしていた。酔いがすっかり醒めて、風が冷たかった。コートの襟を立てて、ポケットに両手を入れた。ダイスケが行ったのとは逆方向の暗がり、東の方に、ひとまず足を踏み出した。


つづく
 

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