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十七歳

 八月の終わり頃の深夜、誰かが部屋の窓に小石をぶつけて、夢の続きを絶った。私は寝汗で気持ち悪い枕から頭を起こし、カーテンの向こうの窓に打ちつけるノックの音に耳をすませた。目を閉じて広がる世界が目の前を未だ漂い、意味で捉えられないイメージの集合が私を捉えていた。私は氷河に覆われた街を走って逃げていた。鋭い氷が空から降っている。誰もいなかった。倒壊をまぬがれているビルに駆け込み、階段を上がる。何としても大便をしなければならなかった。焦りに足がもつれた。一番高い窓から尻を突き出して、貴重な湯気と供に大地に糞をした。その時、下で人々の群れが私を指さして笑っているのに気が付く。久しぶりに見る人間に安堵するのも束の間、見せてはいけないが誰もが逃れられない行為を見られていることに思い当たり、頬が熱くなる。人々は私の脱糞を見て笑っているのだと思った。私は尻を隠して、窓の下の群集に目をやった。声のでかい男が言った。「あいつ、頭真っ白だ」皆、私の頭を指さして笑っていた。私は頭を抱える。「尻隠して、頭隠さずだ!」大声が私を責めた。窓を叩く小石の音が続いている。誰の仕業かは寝起きの頭でもすぐに分かった。暗闇の中でパジャマを脱ぎ、買ったばかりの「リーバイス501」をはいた足で泥棒のように自宅の階段を降りて、玄関を出た。川と自宅の間の砂利道にダイスケが立っていた。
「何回、石を投げさせるつもりだよ」とダイスケは言った。
 彼はジーンズに「ギャルソン」の黒色の半そでシャツを着ていた。前に付き合っていた彼女に買ってもらったやつだ。長い黒髪は無造作に分けられて、薄い唇の両端が頬に向かって自然と持ち上がっていた。
「夢の途中だったんだ」と私は言った。
「目やに、ついてる」とダイスケは言った。
 雲が空を覆い、その形も定かでない暗い夜だった。家の前の細い川が、静かに音を立てて流れていた。ダイスケの自転車の後ろ、荷台部分に私が尻を食い込ませて、自転車はコンビニに向った。砂利道の上を走る音が心地良かった。
 自転車のカゴにはアーリータイムズの瓶が入っていた。私はダイスケの腰に手をやり、そのウィスキーの瓶を眺め、ダイスケが女を抱いてきたばかりの身体で自転車を漕いでいることを考えて勃起した。
 道がアスファルトに変わり、自転車はスピードを上げる。生ぬるい風が頬をかすめ、ダイスケの長い髪が目の前を狂ったようにはためき、シャンプーの匂いが鼻に吹きつけてくる。私はまた勃起した。ダイスケの彼女は二十六歳の看護士で、「あなた達くらいの年頃の男の子が考えていることをわたしはよく知ってるのよ」と言いたげな目をしていて、肌は透き通るように白く、誰が見ても美しい女だった。一度だけ、彼女とダイスケと私でカラオケに行ったことがあり、ダイスケがジョンレノンの「LOVE」か何かを歌っている間、彼女の白い胸元があまりに開いているのが気になって私が熱い視線を注いでいるのを、胸元の上方にある彼女の両目が見下ろしているのに気が付いた瞬間、しまったと慌てふためく私に彼女は優しく微笑んだ。十七歳の私がかなう女ではなかった。
「今日もエッチしてきたの?」と私は訊いた。
「うん」とダイスケは言った。
「どんな感じ?」
 ダイスケは答えなかった。ペダルを漕ぐ足に少し力が増したように感じたが、気のせいだとも思った。
 コンビニに着くと、私達はベンチに腰掛けて煙草を吸った。店内には一人も客がいなくて、周りの住宅は寝静まって、時々走り去っていく車が待ち遠しい刺激にさえ思えた。
「なあ、どんな感じなの?ミユキとエッチするのって」
「いえないね」とダイスケは言った。「ミユキが田中は女の子にもてるタイプだっていってたよ」
「うそ?」
「ほんと。カラオケ代をご馳走した時に、おれは何も言わなかったけど、田中は礼を忘れなかったし、いつも気遣いがあるからだって。おれより優しい男だってさ」
「じゃあなんで、ダイスケがミユキとエッチできて、僕はできないんだ?」と私は訊く。
「おれの方が男前だから」
 ダイスケは笑って煙を吐き出して、なぜか寂しそうな表情になり、アーリータイムズの瓶に口をつけて飲む。海外の青春映画のように彼は瓶を手渡してくる。私は初めての飲み物に警戒しながら口に含み、むせそうになるのをこらえて、飲み込んだ。熱いものが喉を通り、食道と胃袋の位置を明らかにした。不味かったが、ダイスケが手渡してくる限り、瓶に口をつけた。ウィスキーを飲み慣れているかのように演じなければならないと私は思い込んでいた。
「何か夢の話を聞かせてよ」とダイスケが言った。
 見たばかりの夢をダイスケに話した。尻隠して頭隠さずか、とダイスケが一言呟いて話は終わった。遠くの方を見て、何かを考えているように見えた。煙草を一本吸い終わると、ダイスケはにっこりと笑った。考え事に良い答えが出たのか、その最中に、横に私がいることに思い当たったのか、よくはわからない笑顔だった。
「シリーズものみたいに続いていく夢はどうなった?電車でチンパンジーか何かに出会うやつ」
「最近は見てないよ」
 ベンチに置いてあるダイスケの煙草の箱から一本抜き取って火を点けた。
「たまには自分で買えよ」とダイスケは言った。
「ダイスケさ、何人とエッチしたかな?」と私は訊いた。
「もう忘れた」とダイスケは言った。
「僕はこれからダイスケみたいに、死ぬほどエッチしてみたいな。三百六十五日、来る日も来る日も、何枚も何枚も女の子の勝負下着を脱がして、褒めてあげるの」
「女とエッチなんかしてどうする?」とダイスケがウィスキーの瓶に口をつけている。
「神がいるとしたら、それは女だ」と私は言った。
「ボブディランだろそれ?」
「絵なんか描いてどうする?」
「アインシュタインはこう言っている。この世界を、個人的な願望を実現する場とせず、感嘆し、求め、観察する自由な存在としてそこに立ち向かうとき、われわれは芸術と科学の領域に入る。特に絵画の領域が望ましい」とダイスケはありもしない口髭を引っ張るような仕草をして見せる。
「絵画の領域?」と私は言って、ダイスケを睨みつけて見せる。
「お前も絵を描けよ、夢日記もいいけどさ」
「いやだね」
 再び自転車に二人乗りして高校の外周を走った後、私の家の近くにある大きな公園に入っていった。木々が立ち並んでいる中をゆっくり走っている途中で、げらげらした笑い声と花火の音が聞こえて、ダイスケは自転車を止めた。野球場の方からだった。自転車を置いて、公園のほぼ中央にある野球場に向かった。外野席の後ろにあたる草が茂った丘を登っていく。笛のような音に続いて、炸裂音がして一瞬の火が暗い夜に弾けて消え、男の笑い声と楽しげな女の高い声が聞こえた。私達は草むらから顔を出して、場内を見渡した。向こう側のベンチのあたりから五、六人の男女の声が聞こえた。噴出型の花火が短い間、細かい火のシャワーを空に舞い上げて、浮かれた男女の姿を映し出して、ぱったりと止む。星も月も見えない暗い夜が戻って、いちゃついている男女の声が響き渡る。
 打ち上げ花火が続いた。私達は草むらに寝そべって顔だけを出して、彼らの花火を眺めていた。
「うちの高校の奴かな」と私は言った。
「いや、商業高校の奴らだろう」とダイスケは言った。
「楽しそうだね」
 ダイスケは丘を下りて、手の平に収まる丸い石をたっぷり両手に抱えて戻ってきた。
「やるぞ」とダイスケは言って、石を右手に握り締めて立ち上がり、素早く振りかぶってベンチの方に向かって投げた。すぐにしゃがみ込んで姿を隠す。私は何が起こったか唖然としたまま、草むらから目を出してベンチを見ている。石は数秒の滞空時間を経て、彼らのベンチを覆うコンクリートの上に落ちた。こん、という音が鳴って、ベンチが静まり返った。偶然、木の枝か何かが落ちてきたみたいだけど、気にすることもなかろうというように短い沈黙がすぐに破られて、どっと笑い声が起きた。ダイスケは二つ目の石を投げた。それはまたもベンチの上あたりに落ちて、さっきよりも大きな音を立てた。笑い声が止んだ。
「ダイスケ。何やってるの、これ?」と訊いた私の手にダイスケは石を握らせた。
 私が投げた石はベンチを幾分右に離れた観客席に落ちた。
「誰だこら!」という若い男の声が球場に響き渡った。どこか恐怖に慄いた声色で、野球の試合でよくある野次よりも迫力がなかった。
 ダイスケが石を投げて、それは確実に彼らのベンチの上に落ちた。女の悲鳴が長く続き、男達が口々に喚いている。「ふざけるなよ!出てこい、こらっ」ベンチから飛び出した者達がグラウンドの土を踏みしめて、方々に視線を走らせる為に体勢を変えている落ち着きのない影が見えた。ダイスケは石を続けて投げていった。混乱に我を忘れた悲鳴、怒声のための怒声。女の声、お願いだからやめて。ぶっ殺す、ぶっ殺すという男達の声。
「もうやめよう」と私は言って、ダイスケの腕をとった。
 自転車まで走った。今度は私が自転車のハンドルを取って、ダイスケが荷台に乗った。
 静かな夜の中を走った。ダイスケの重みがペダルの感覚を通して、ずっしりと太ももに伝わってきて、汗が止まらなかった。
 十分ほど走った後、橋のたもとで自転車を降りた。川岸の大きな石に腰掛けて、煙草を吸った。私は太ももを揉みながら、小さな冒険を振り返って楽しもうと、あいつらびびってたね、というようなことを言ったが、ダイスケは何も答えずに煙草を吸い、川面を眺めていた。そんなことはどうでもいいと言っているようにも見えた。
 ダイスケは煙草を石に擦り付けて火を消し、後ろポケットに手を突っ込んだ。戻ってきた手には白い布が握られていた。
「なにそれ?」
 布を受け取って広げる。つるつるの生地をした白い下着だった。
「パンツ」と私は言った。「ダイスケ、ミユキのパンツとってきたの?」
 ダイスケが私の手から白い下着を奪い取る。空いた手でアーリータイムズの瓶をつかみ、下着に少し垂らした。
「もったいない!」と私はとっさに言った後で、下着のことなのか、ウィスキーのことなのか自分でもわからない。
 ダイスケは人差し指を唇の前に立てて、しーっと言った。私の方が場にそぐわない戯言を口にしてしまったかのようだった。
 ダイスケは煙草に火を点けて、そのまま同じライターの火を下着に突き立てる。下着の端にオレンジ色の細い線が走り、尖った黄色の火が盛り上がるにつれて、黒色がじわじわと白い下着を埋めていく。私はダイスケのくわえ煙草の煙と下着の煙が立ち昇っているのを呆然と眺めていた。ダイスケは煙のせいか、何度か目を擦っていた。布が焼ける嫌な匂いが広がる。ダイスケは黒焦げになっていく下着の火が手を脅かす前に下へ落とした。石の上でそれは揺らめきながら完全な黒に向かっていき、やがて火は絶えた。
 この夜にダイスケがミユキと別れたのを私が知るのは一ヶ月先だった。私は自宅に戻るとベッドに入り、ミユキのことを思い浮かべてマスターベーションをした。「田中君のほうがダイスケより優しくていいわ」と彼女は言って、服を脱いでいった。事が済むと何もかもがどうでもいいような気がした。


つづく

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