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カフェと映画とバー

 太陽が沈み、街には明かりが灯っていた。すっかり広がった薄闇に身を馴染ませ、コートの襟を立てて繁華街まで歩いた。路上は移動する人々で混み合い、頭上は曇り空で月は見当たらなかった。ビルの窓のいくつかに四角い光が灯り、点在して模様を描いているのが綺麗だった。
 三番街のカフェに入ってビールとチーズグラタンをテーブルの上に並べて、煙草を吸った。窓際の席から外を行き交う人々を眺め、手の平を口の少し前にかざして、息を吹きかけて口臭を何度か確かめた。学生の集団が獲物を得た後の満足顔でブランドの袋を揺らしたり、念入りにセットして不精感を出した髪形を指先でつまんだりしているのをゆっくりと眺めた後、ビールを飲み干し、冷えたグラタンを食べた。
 梅田ロフトに行き、ハルミツの描いたスケッチを入れる額を買って宅急便でアパートに送り、地下一階にある映画館に入った。「封をしてある手紙」という映画が七時二十分から上映しているのに間に合った。
 公園で手紙を偶然拾った主人公、三十代後半とおぼしき長髪の男は封を開けてしまう。そこには、誰かが投函せずにそのままにした会社の同僚への殺意が記してあった。彼はそれに過敏に反応する。かつて父親に向けて彼も同じような手紙を書き、それをそのまま机の下に眠らせていたのだ。彼は机の下からそれを引きずり出してしまう。やがて彼は実際に行動に移すこと(例えば殺害すること)と、想像したり、紙に書きつけることの境界を失い、混乱していく。見知らぬ手紙の中で、想像の中で、夢の中で、誰かが誰かの首を絞めて、しかもそれが投函されずに眠っているかもしれないという考えに彼は怯えて、今まで付き合った彼女に片っ端から電話をかけて謝り倒したり、子供の頃いじめていた同級生に(トイレでウンコするように命令して、それに従っている健気な尻に小便をかけたりした映像がフラッシュバックする)高級絨毯を送りつけたりする。途中、私はビールのせいか居眠りをしてしまい、気付いた時には主人公は父親を山荘に閉じ込めて、火を点けたところだった。彼の妄想なのか現実なのか判別がつかない、映画なのは確かだったが、私は夢うつつでもあった。火は高々と燃え上がり、空から封をした真っ白な便箋が雪のように次々と降ってくる。エンドロール。内容は良くわからなかったが、空いている映画館の暗闇の中に腰掛けているのは心地良く、無数の白い便箋が燃えたり地面に降り積もったりする映像は綺麗で、時間が過ぎれば何でも良かったというのもあった。
 ほとんど食べなかったポップコーンを左手に、自らの孤独で暖めた名残惜しい座席を私は後にした。
 外に出ると私は立ち尽くして、ポップコーンを食べていた。小さい、真っ赤なダウンジャケットを着た女の子がロフトのドア横にもたれかかって、こちらを見ているのに気付いた。どうやらポップコーンを見ているようだった。私が微笑むと彼女は背中をこちらに見せて、肩越しにこちらを窺う。私はポップコーンを手の平にのせて、犬にやるように差し出すフリをしてから宙に投げて、口でキャッチした。彼女の頬が持ち上がった。
 ポップコーンを全部彼女にあげた。花束を渡すように両手で、彼女の両手に。
「だめよ、ミナちゃん!」という声が聞こえて、黒いコートに隙のない化粧をした背の高い女が走ってきた。「ほら、返しなさい」
「ちょうど今日は食べ過ぎなんです。良かったらどうぞ」と私は言った。
「すみません」と女は言って顔をゆがめ、頭を素早く下げて上げた。
 行き先が決まっていないにしろ、私はひとまず自分の方向を決めて歩み出す。すぐに「だめよ。知らない人と話しちゃ。危ない人だったらどうするの?」という女の声が聞こえた。女の子の泣き声が続く。
 振り返ると、女はゴミ箱にポップコーンを捨てているところだった。
 
 スポーツ用品店、マクドナルド、靴屋などが立ち並ぶ路地を通り抜けていき、前から知っている「PECO」というバーに入った。黒光りしたカウンターの奥に座り、ハイネケンを飲んだ。隣りでは若い男が二人並んで、ジャックダニエルをロックで何杯も飲んでいた。二人とも、爪の伸びた指をグラスに突っ込んで、美しい球形をした氷をこれ見よがしに回転させていた。隣りの男は十七歳の女とセックスしたという話を披露し、その肌がどうしたとか、教え込んでやったとか、女のバーテンが眉間に皺を寄せているのも構わずに続けて、人生は短いんだから、お前も今のうちにやっとかないと損だぞ。禿げ始めてからじゃ遅いんだからよ、と連れの男の肩を叩いていた。
 私はハイネケンを三本飲み、ギネスビールを一杯飲んだ。その間に隣りの男は何度かトイレに行き、その度に嘔吐物の臭いを伴って戻ってきた。バーテンが彼の前に無言で水を置き、やがて彼らは立ち去り、入れ替わりに三人組の男女が横に座った。二十代前半くらいの男女と四十代くらいの白髪混じりの男で、若い二人が今日でアルバイトを辞めて、上司の男が小さな送別会を催したということが話から推測できた。上下関係を引きずったカウンターで若い二人のグラスは進まず、白髪の男は山崎のロックを早いペースで飲み、ビーフジャーキーをくちゃくちゃし、氷を指でかき混ぜている。煙草を吸うと、吸い口が唾液でベタベタになっているのが、バーの暗がりの中でもはっきり見えた。送別会によく交わされる言葉がひと通り済むと、白髪が妻への絶望を語り始め、若い頃、本当に好きな女がいて、彼女と結婚したかったが、誤解とすれ違いがあって叶わなかったという内容を長々と語っていたが、目の下のぷっくりした膨らみを擦りながら、女の胸をちらりと度々見ていた。女は胸が大きく、黒髪のショートヘアで化粧気はなく、どことなく無防備で経験不足なのが露呈していて、白髪の男が彼女を何とかしたいと思っていることを私は感じ取った。隣りの若い男が先に帰ると告げ、白髪は彼女のカシスオレンジがまだ残っていることを指摘し、「君はもう少し飲んでいく?ここ三階まであるから、上行こうか。すごく美味しいカクテルをご馳走するから。ここでしか飲めないやつ」と言った。若い男が去り、やがて残った二人は階段を上がっていった。
 デュベルを飲みながら、ハルミツのスケッチをカウンターの上に広げて、自分の顔の横に描かれた土管にシャープペンで、はみ出した尻を描き入れた。煙草を一本吸う間、自分の顔と、それを創る線を眺めた。今朝、電車でハルミツに出会ったことが遠い昔のことのように感じた。私はハルミツと真由が並んで歩いていく後ろ姿を思い浮かべた。
 デュベルをもう一杯飲み、ローデンバッハを注文すると髭を生やしたバーテンが声をかけてきた。「ベルギービールがお好きなんですか?」
「ビールは何でも好きですよ」と私は言った。
「お客様はサラリーマンには見えませんね。どんなお仕事をなさっているんですか?」
「どんな風に見えますか?」
「何か専門的な職業という感じがします。あたりですか?」
「はずれ」と私は言った。「サラリーマンです」
 女のバーテンがローデンバッハを私の前に置いて、灰皿を取り替えた。
「スーパーですごく安い豆腐を売ってるの知ってます?」と私は言った。
「いえ、存じ上げません」と髭のバーテンが言った。
「一丁が二十円なんです」私は煙草に火を点けて吸い、ローデンバッハで喉を湿らせた。「安売りで有名なスーパーに並んでいます。時々そこに僕は買物に行くんです。そうすると、その二十円の豆腐を三丁ほどカゴに放り込んで、『こんなもんでも食うか』と作業着の男達が言ってたり、『安いけど大丈夫なのかな?』と夫婦が相談し合ったり、主婦が問答無用で大量にカゴに入れたりしているのを見聞きすることができます。続きを話してもいいですか?」
「続きを聞かせてください。よろしければ」
「だいたい、四丁買っても八十円という豆腐です。まあ、質より量という方もけっこういます。鍋のシーズンですしね。防腐剤たっぷりで味に深みはありませんが、買う人もそのことは分かっていて、それでも生活がありますから『こんなもんでも食うか』という感じで買っていくことが多いんですね。実際、豆腐というよりは白いゴミのようなものなんです。豆腐の形に整えたゴミですね」
 煙草を消し、ローデンバッハを飲み、深呼吸をした。けっこう酔ってきたな、と私は思った。目の前のバーテン然とした口髭が羽ばたいている蝶のように見えてきて可笑しかった。笑いをこらえ、バーテンの着ているベストを褒めた。
「あの、話は終わりですか?」
「話は終わりです」と私は言った。
「こんなもんでも食うか、とカゴに放り込まれる白いゴミのような二十円の豆腐。何かの教訓ですね。深い意味がおありなんでしょうね」
「え?」と私は言った。「意味はないです。僕はその白いゴミのパッケージデザインをパソコンで作成したり、スーパーに営業したりするのが仕事なんです。その給与でここのベルギービールの代金を払います。あなたはここで稼いだ給与で一度、僕の会社の豆腐を買ってくださいね。お願いします。それじゃご馳走様でした」
 もう黙るべきだと気付いて席を立ったが、料金を精算しながらまたも口を開いてしまう。底の方は冷え切っていたが、口は止まらない。「入社した頃はなかなか美味しい豆腐を作ってたんですけど、会社の方針が変わったんですね。よくある話です。まあ、母親も死ぬまでそこで勤め上げろといいますし、転職する勇気も僕にはないみたいです。どうでもいい話ですね、すみません。でも僕は真面目に営業に取り組んでいます。今日はずる休みしましたけど。とにかくベストを尽くして豆腐を売るつもりですよ。いち、男として。酔っ払ってると思ってます?僕は酔っ払うのは嫌いなんです。飲むといつも酔っ払ってしまうからです。それじゃ、おやすみなさい」
 外に出て、足がうまく動かないことに気が付いた。何か足以外のものが下半身にくっついているという感じだった。近くの自動販売機まで歩いていって、ペットボトル入りの水を二つ買った。座り込み、足をアスファルトに投げ出し、両手を腰の後ろに伸ばして身体を支えた。目の前の空間が回転し始める。水の一本を一気飲みした。すぐに吐き気を催して、立ち上がり、販売機の横に水もろとも胃の中のものを吐いた。ローデンバッハのせいか、胃液のせいか酸味がきつく口に広がった。もう一本の水で口をすすぎ、今度はゆっくり、全部飲み干した。夜風に吹かれながら座り込み、PECOの入口をぼーっと眺めていた。何も考えられなかった。
 だいぶ気分がましになった頃、PECOから送別会の二人がもつれあって出てきた。若い女は頬を赤く染めて、ふらついていて、奇妙な笑顔が張り付いている。白髪の男は彼女の腰や背中を撫でまわしながらついでに身体を支えていた。彼女の方も気持ち良さそうで少しも嫌がっていない。「ちょっと休んでいこう。酔っ払ったよ」二人は身体をくねらせ、どこかに向かって歩いて行った。彼女のむっちりした尻が揺れ、それを男の手が遮っては忙しなく背中に向かい、尻に戻る。私は二人の行き先を想像し、股間が硬くなり、吐き気を催して、黄色い胃液が出るまで販売機の側面に吐き続けた。


つづく
 

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